7.17

 今日は、朝から眠ってばかりだ。昨日久しぶりに300㏄とすべての薬を飲んだが、今日は今のところ、9時からのウイダインゼリーの一口とポカリの2さじのみ。しかも途中でねむりはじめたので、あわてて口腔用テイシュで口の中から出した。その時の顔。クシャクシャして泣いているようだ。
 おれとしては、できるだけ長く生きていてほしい。そのためには、食べさせるしかない。それを一生懸命やっているつもりだ。しかし、それが母にとってつらいなら・・・。食べさせるのは、間違いかも。しかし食べないなら母が死んでしまう。
 
 母は、5月初め肺炎とうっ血性心不全で公立病院に入院した。退院する頃おれは、母はどんどん良くなり、車いすで居間と自分の部屋を行ったり来たりする姿を想像していた。トイレではできなくても、ポータブルでできるぐらいには回復すると思っていた。
 その思いを初めに打ち砕いたのは、往診最初の、阿部Dの「認知症の最後は食べなくなる」という言葉だった。そして「その時は2つの道しかない。イロウと衰弱死だ。」という言葉だった。
 おれは、イロウをせず、母にできるだけ食べさせる決心をした。努力をした。母に無理をさせた。しかし、母は徐々に食べる量と質を下げていった。
 おとといは50㏄まで減った。昨日は290㏄。今日は、10㏄だ。
 も少し元気なころ、イロウをすべきだったのだろうか。イロウは危険があったのだろうか。おれは、母の命を縮めているのでは、という気持ちがやはりある。
 しかし医者の、「もしイロウが適当な患者には医者は、イロウを勧める」という言葉は信じる。やはり、イロウ手術は危険があり、イロウをしても心臓の働きが弱くなっているので、多くを食べさせることができないという言葉も正しいのだろう。なぜなら退院直後いっぱい食べてた時でもあまり血圧は高くなかったから。
 そして病気の大きな中心は、医者の言うとおり、認知症なのだろう。食べることを忘れてしまうのだ。そしたらアリセプトをと思ったが、医者は、それは心臓の悪い影響があるので、主治医としてはやりたくないということだ。そして入院・退院という環境の変化が認知のステージを大きく進めるとも言われた。あちらを立てればこちらが立たず。ジレンマ・トリレンマの世界だ。
 
 これまでなかなか書けなかった、そして圧倒的におれの気持ちの多くを占めている母の死について書いてゆく。