涼しい風が吹く

 8月9日夏の真っ最中というのに涼しい風が吹く。
 三日前の8月6日から暑さはどこかへ雲隠れ。昨日は、結構激しい雨が降り湿度も高かった。今日は、気温26度で湿度も58%と快適な空気である。
 午前中2回、裏の畑の農作業をした。3年ぶりに備中鍬(4本こ)ー4本このこの字がどんなだか思い出せないので古名で記したーで耕った。この耕う(うなう)というのは、漢字で出てこないが、方言なんだろうか。それともコンピューターにないのだろうか。調べればわかるが、面倒なので調べない。
 そんなことはどうでもいい。言いたいのは、気持ちのいい風が吹き、極楽ということだ。ハワイなどは、いつもこんな気候なのだろうか。ところが、我が妻がそばで俺の嫌いな「笑っていいとも」をビデオで流し始めた。この番組、どうもギャーギャーとやかましくて嫌いだ。しかも、ほとんどが、特定芸能人(お笑い芸能人村)の下らぬやり取りに終始している。なぜ俺らが彼らのお遊びにつきあう必要があるのか。しかし我慢しよう。無視しよう。
 そんなこともどうでもいい。
 言いたいのは、こんな快適な極楽の空気の中で、わが母が死の床についているという悲しみだ。母は、この数日まったく反応がなくなった。少し前は、ニコニコしたのに、もう少し前は、食べたのに、さらにもうちょっと前は、いろいろしゃべったのに。退院直後は、いつもの椅子に座り、食べ物を食べ、運動をしたのに。運動と言っても俺の合図ですこし手足を動かすぐらいだが。
 しょうがない。自分で食べなくなったのだから。認知症とは恐ろしいものだ。脳が何かに食われているような気がしてしまう。そのうち呼吸中枢や心臓機能中枢も食われてしまうのかもな。その時が迫っている。
 癌の妻河野裕子を歌った夫=永田和弘の歌に、「・・・・いつか来るその日を恐る」(前半忘れた)とあったが、良く分かる。その日は、わが母の場合目前なのだ。尤も、人には全て例外なくその日が来る。いや生物は全てだが。それでも、自分を生んで育ててくれた母の死というのは大きい。茂吉に「喉赤きつばくらめ二つ梁にいて、たらちねの母は、死にたもうなり」というのがあった。蕪村に「むかしむかししきりに思う慈母の恩」という句がある。
 母という存在は、大きいなあ。自分の力で生きられない幼い命が頼る存在だからなあ。