事故責任と自己責任

 原発事故当時の原発所長吉田さんが亡くなった。食道がんとのことだが、70ミリシーベルトも被曝したそうだ。東電は5年後から影響が出るとして否定しているが、その被曝は影響ないんだろうか。
 吉田所長は、責任感の強い人のように思えた。一時は英雄扱いをしたマスコミもあった。事故を抑えようと必死で戦ったのは良くわかる。
 しかし、原発事故があり、きわめて大きな広範囲の被害があったのであるから、誰かに責任は存在する。所長だから所長権限の範囲で責任がある。
 私は、だれにどのような責任があるかを明確にすることがきわめて大切だと思っている。
 後で知ったことだが、東電内部で大きな津波が来ることも想定されたけれど、その対策は不要との結論だったそうだ。そのような結論を出した責任は重い。原子力安全委員会という国家機関は、安全の最高責任者故もっと大きな責任がある。数年前、国会で津波対策が議論になったそうだが、それを無視した政府の責任も重い。かつて、地元の一部の人が、裁判所に「危険である故、運転差し止めを求める」請求を起こしたが、仙台高裁で棄却された。その裁判官にも責任はあると思う。
 安全神話を作って原発を推進してきた自民党・政府・学者・企業にも責任がある。マスコミも、社会の木鐸ならその責任を果たしていなかったといえる。それなのに再び再稼働や輸出を進める現自民党政府や企業は、まったく反省していないのではないか。被災者の痛みに対する想像力が欠けている。
 では、われわれには責任がないのか。地域自治体は積極的に原発を導入した。それを多くの住民は賛成した。少なくとも関心が薄かった。少数かもしれないが、原発は危険と言っていた学者・住民がいた。彼らの意見を真剣に聞いていなかったといえるのではないか。その意味で責任はある。全国民にも責任がある。電力をむやみに使い、安全神話を信じ、原発を欲したと思うからだ。
 事故後、国民の多くが節電に協力し、今でも原発再稼働に反対の人が多いという。国民は、事故を反省し、反省をを生かそうとしているとおれは思う。
 それなのに、原発を推進してきた自民党政府・企業・学者などは、一般国民よりはるかに重い責任がありながら、再稼働を進めようとしている。彼らにとって人ごとなんだ。事故の苦しみなんて。自分たちの今の利益が最優先なんだ。
 思い出そう。自己責任と言う言葉を。かつてイラク戦争があったころ、高遠さんら日本人3人が武装勢力に捕まった。武装勢力の要求は、自衛隊撤去であった。その時政府もマスコミも、自己責任と言って、高遠さんたちを切り捨てた。他の痛みを感じない人たちなのだ。
 案外、原発推進派の人たちは、裏では、「事故は被災者の自己責任」だと思っているのかもしれない。ベロでも出してるのかも知れない。
 我々にも何らかの責任はある。しかし、原発推進してきた自民党・企業・学者・官僚その他原子力村の人々に、決してそうは言われたくない。