「自転車がなかった」原作と映画とドラマ・・「二十四の瞳」

 本日夏休み最後の日。明日から仕事。

また木下映画の「二十四の瞳」を見た。泣けてきた。いったい何回見たろうか。そこで突然原作を読んでみようと思い立ち、図書館で借りてきて読んでみた。

 びっくりしたのは、原作には、最後の場面に自転車が登場しないことだ。生徒による自転車のプレゼントは、木下の脚色だったのだ。なるほどと腑に落ちた。教え子たちにあんなピカピカの自転車なんてプレゼントする余力あるのかなと思ってた。少なくとも中古のぼろい自転車でないと変と思っていた。その意味では、松下奈緒主演のドラマの方が原作に忠実だ。木下映画にない最後の場面での弁当箱のことが原作にはあった。これもドラマの方が原作に忠実だ。
 新品の自転車を少数の教え子が昭和21年時点でプレゼント出来ると言うのは非現実的だろう。原作やドラマが現実に近いと思う。

 しかし自転車がないとあの映画の最後の大石先生の通勤場面がないことになる。そしてあの通勤場面が最も泣けてくる場面なんだ。少々無理でも感動をと言う木下の作戦なんだろうね。

 原作を読んで思ったことは、現実に近いということだ。きれいごとにとどまっていないということだ。映画やドラマはきれいごとにしていると思う。
 たとえば自転車。原作では、自転車を手に入れるという話には、悪のにおいをにおわせている。

 原作と映画・ドラマの一番の違いは、原作は、子どもたちを純情無垢なばかりで表現してない点だろう。ソンキの寝ションベン。子どもたちの競争心・嫉妬・意地悪も描いている。そしてその境遇の悲惨さも描いている。富士子の娼婦や正の留年なども。

それでもやはり少人数の同級生たち。遠慮のない同情の言い回しが感動的である。

マスノ「おまえがめくらになんぞなって、戻ってくるから、みんなあわれがって、みえないおまえの目に気兼ねしとるんだぞ。ソンキ、お前そんなことに負けたらいかんぞ、ソンキ。・・・めくらめくらと言われても、平気の平左で折られるようになれよ。ソンキ」

吉次「ちっとは見えるんかいや、ソンキ」磯吉は笑い出し、「目玉がないんじゃって、キッチン。それでもな、この写真はみえるんじゃ。な、ほら。この真ん中・・・」

真実に近い小説の表現による感動。少々無理しても感動させる映画という感じかな。

それにしても映画の風景の美しさと小学唱歌の効果はすごい。