内田樹氏の「いじめ自殺について」への疑問

今日新潮45の5月号で内田樹の「諸悪の根源」と言う評論文を読んだ。

 俺の脳みそが悪いせいで、良くわからないことが多かったが、いじめについての彼の意見には異見がある。
 
 全体的論旨は、ある集団が何らかの困難に出会った時、その困難の「諸悪の根源」を特定しそれを排除することにより一時的解決を図る、あるいはカタルシスを得ると言うことを人類はやってきたというのが論旨なのだと思うが、それには納得する。

それと日本の現状のいじめがどう関係するのか理解できなかった。

彼の「いじめは、いけにえ儀式の典型とか、いじめの対象が次々変わるとか、いじめを指弾する人・組織も学校・教委などスケープゴートを求めている」なんて主張はそうかもと思う。

しかし、彼の「いじめられて自殺する子は、かつて自分がいじめの加害者あるいは傍観者なので、抵抗できずに自殺する」という考え、どこからそんなことが言えるのか分からぬ。筆者の考えは、おかしいと思う。彼の論拠は、「もしいじめ被害自殺者が、いじめに加担してなく傍観もしてなかったら、相手が強くともクラスの全員でも、そんな悪いことをするなと言えるはず」ということである。

「そんな悪いことをするな」なんて言えるのは強い人である。そんな人は、もともといじめの対象にならないのではないか。

いじめを「相手が嫌がっていることを継続的に行うこと」と広く定義しても、俺は、小学校以来いじめに遭ったことも、いじめたこともいじめを見たこともない。いまだってそんなにおおいことなのか。

内田氏の説によれば、自殺者は、ある時いじめのある集団にいたことになる。そしていじめの加担者か、いじめの傍観者になって、傍観することに罪悪感を感じる倫理的感情の強い人と言うことになると思う。傍観することに罪悪感を感じて「俺はかつていじめられた人を見捨てたから、今いじめられるのは仕方ない」なんて考えるんだろうか。

変だと思う。

最近身近に見たいじめは、ニュースで良く報道された、「友達」の中でのいじめであった。そのいじめの中味は、自分の仕事をやらせる、いたずらで体に落書き、パシリ、自分の便宜のため遣う、など一方的日常的支配・被支配の関係である。なぜいじめられている彼は、反撃できないか。俺が思うに彼は、人がいいから、真面目で気弱だからだと思う。
「君の友人は」と、いじめられている彼に聞いたら、いじめている(ように俺からは見える)「友人」の名を挙げた。被害・加害者とも「いじめるな」と言っても「いじめじゃない」と言う。

学校の先生方の大変さが分かる。

今のいじめは、仲間集団の中での支配・被支配の関係が、上位者の利益と人を支配する楽しみと絡んでエスカレートしていくのが多いケースのように思う。もちろん内田氏の考える異質者の排除と言う場合もあると思うが。