「そう,先生、弱虫」と「鎧袖一触」

またまた映画「二十四の瞳」を見てしまいました。私の危機感がそうさせます。

上の言葉は、小6の教え子たちと進路について話す場面の主人公大石先生の言葉です。

男の子たちは、口々に軍人になりたいと言います。

>大石先生「先生は、漁師や米屋の方がいいな」
男の子「先生、弱虫」
大石先生「そう、先生弱虫」<

これを批判されたことをきっかけに大石先生は学校を辞めます。教え子の男の子5人のうち3人が戦争で死にます。

太平洋戦争時、燈火管制下の暗い中で長男大吉も「はやく軍人になりたい」と言います。

>大石先生「おまえはそんなに戦死したいの。一生懸命育ててきた母さん、毎日泣きの涙で
暮らしていいの」
大吉「そしたら母さん、靖国の母になれるんやないか」
大石先生「靖国の母がそんなにええの。お母さんは、ええ大吉や並木(次男)の母で結構じゃ」「なあ大吉、お母さんは命を大事にするただの人間になってもらいたいな」
大吉「そんなこと言う母さん、よそには一人もおらん、」
大石先生「みんな口では言わんけど、みんな心ではそう思っちょる。」
大吉「学校の先生もそんなこと言わん」
大石先生「お母さん、だから先生辞めたんじゃ」
子どもたち「いくじなしじゃ」「いくじなしじゃ」
大石先生「意気地なしでもいい、誰にほめてもらわんでもいい、お前や並木や八津(長女)がかわいいだけじゃ」

教え子や自分の子どもを可愛く思い、生きていてほしいと思う心、それは当たり前の心である。それが、戦前当り前ではなかった。
当たり前でなくした、一つの装置が靖国神社でした。それが上の大吉の言葉にあらわれています。

安部氏や政治家が靖国神社を参拝するのは、生きていて欲しいという自然な心をなくさせることだと私は思う。自分は安全地帯にいながら。
石原しんたろう氏は、「鎧袖一触」といった。尖閣国有化の流れのなかで。中国なんぞ、かかってきたら、やっちまえ。
だれがやるんだろう。「鎧袖一触」は、だれがやるんだろう。海上保安官海上自衛隊のひとたちだろう。石原や安部氏ではない。
・・・無責任な。人の命をかるくかんがえている。命を手段としている。政治家は紛争が起きないようするのが仕事でしょ。

安部さん、賛成反対ある中、マスコミや諸外国が注視のなか参拝したら公人でしょ。ひそかにだれにもわからず参拝したら私人だ。
皆に迷惑かけないよう、ひそかに誰にもわからず参拝しな。それが私人なのだ。