憲法記念日に思うー日本国には交戦権がない

憲法9条を読んでみましょう。

1項 ・・・「国権の発動たる戦争」・・は、・・・(国際紛争を解決する手段としては)「永久にこれを放棄する」
2項(前項の目的を達するため)・・・「戦力は、これを放棄」、「国の交戦権は、これを認めない」

これを簡単にいえば、
1.国家主権のうちの戦争遂行権を放棄し、戦争を放棄するため、2.戦力は放棄し、3.国家の交戦権は認めないと言う条文である。

さて、自衛隊の活動は、この条文上認められるか。認めるためには、1.自衛隊の活動は、国際紛争とは関係ない。2.自衛隊は、戦力ではない。3.自衛隊の活動は、交戦には当たらない。という3つをすべて証明しないといけない。

さすがにこれは無理でしょう。

つまり自衛隊憲法違反の存在です。あってはならない存在です。ここから出る結論は、2つしかありません。憲法改正して自衛隊の存在を憲法に規定するか、自衛隊解体、あるいは武器を捨てて戦わない何らかの組織にするかしかありません。

(私は、後者の考え方です。戦力にたよらない自衛の手段を構築すべきと思っています。国民の多数がこれのみで不安なら、憲法改正して、第2項は大原則・目標とし、第3項に当分の間、専守防衛としての自衛隊とその限定的交戦権を規定するというのもやむなしと思っています)

現実の日本国は、この2つのどちらでもない道を歩みました。憲法はそのままに、自衛隊が存在し増強し続けました。1960年安保条約により、自国領土を侵された場合米軍と一緒に戦う、1990年代末の法律により、自国領土を侵された場合の自衛隊の行動及び公海上での米軍への後方支援を決めました。後方支援は、戦争行為と一体です。故にこれらはいずれも憲法違反です。その明白な根拠は、交戦権否認です。

憲法違反なのに、戦えない自衛隊がなぜ存在するか。それは、裁判所が判断を放棄し、政治にゆだね、日本国民が、この矛盾を受け入れたからでした。それが日本国民なんだと思います。
つまり、憲法改正を目指す自民党は改正に必要な3分の2をとれず、自衛隊解体を目指す社会党過半数もとれませんでした。そうして国民は、あいまいさに安住してきました。いやあいまいな選択してきました。
あいまいな国のあいまいな日本国民。その気持ちは、わかります。「戦争絶対やだ。しかし侵略されたら無防備では心配。」だから変だけどいいや。あいまいだけどしょうがないや。

その結果憲法違反の自衛隊が、1.国家の自衛権はもともとある、2.国家の主権を侵されるのは、国際紛争ではない、3.自衛ための最低限の実力は、戦力ではない、4.自衛隊の実力は、最低限を超えていないという理屈を自民党政府が作りだし、国民の多数がそれを認めて自衛隊は存在してきました。しかし、日本国には交戦権がありません。どんな理屈を考えだしても、交戦権がないのですから戦えないのです。

もし、解釈上可能とするなら、2項の「前項の目的を達成するため」が1項の「国際紛争解決の手段としての戦争」にかかる、かつ自国領土への攻撃は国際紛争ではないと言う解釈でしょうが、無理のある解釈です。この無理のある解釈の結果が専守防衛でした。
この無理して解釈してあいまいさに安住してきた国民に付け込んだのが、安部政権でした。

しかし、安部政権ですが、専守防衛を超え、後方支援を超えて、公海上で米軍と一緒に戦う(集団的自衛権)と言うのですから大変です。米軍と一緒に戦うことは交戦とは言わないんでしょうか。憲法上交戦権がないんですから、憲法違反でしょう。米軍が日本の近くで戦うのを国際紛争と言わないと言うのは難しいでしょう。

後方支援も1999年の周辺事態法でやれることになりました。大論争の末です。これだって憲法違反の可能性大です。それなのに法律も作らないで内閣の判断で、米軍と一緒に戦うと言うのが安倍政権ですから、戦争については全権委任をせよと言うことです。ファシズムそのものです。
安倍政権は、あいまいな政権ではありません。戦争をするファシズム政権です。憲法・法律を無視して戦う政権なんです。誕生させてはいけなかった政権なんです。

この安倍政権の基盤は、直近の2つの国政選挙です。この選挙で集団的自衛権で投票をした人は少ないでしょう。つまり、集団的自衛権に対して支持を得ているわけではありません。

2012年自民党憲法改正案には、現憲法の交戦権否認条項がなくなっています。これは筋が通っています。戦う権利を国民が認めることになるわけですから。
自民党は、この改正案を国会に提出し、両院で総議員の3分の2を得、国民の過半数の賛成を得て、集団的自衛権も含む武力による自衛権行使を国民から認めてもらうべきです。

尚、自民党憲法改正案には、宣戦布告・講和の権限がどこにあるかかいてありません。明治憲法では天皇大権の一つでした。

宣戦布告をする権限をどこに置くかを明確にしなければいけません。また、講和はどこがするのでしょうか。戦争の出口を決めておかなくていいんでしょうか。

もし、抑止力にしか使わないと言うなら、使えないものを認める必要がどこにあるか、説明不能です。


安倍政権が96条改正を目指したときの理由の一つが、憲法に国民の意見を反映しやすくする(憲法を国民の手に)でした。政府解釈で交戦権肯定なんていう憲法改正が出来るんでは、憲法に国民の意思反映なんてどこにもないでしょう。余りにもご都合主義でしょう。安倍政権は、憲法を無視するファシズム政権です。


5月3日の朝日新聞投書欄に「われら皆 9条となりて この国を 見守りており 忘るべからず」と言うあの戦争でなくなった人々の心を歌った歌がありました。

そうなんだと思います。憲法戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認は、戦争で亡くなった人の遺志なのです。あの戦争の惨禍を経験した人々のうちの多数意思(生存者)・遺志(死者)なのです。

「戦争はやだ。でも無防備はこわい」そのためには曖昧でもいいやと思う日本国民は、安部政権を倒す声を上げましょう。
繰り返します、安部政権は、安保政策ではあいまいな政権ではありません。戦うファシズム政権です。