>またまたまた、映画「二十四の瞳」を見てしまいました。私の危機感がそうさせます。
この書き出しは、「そう、先生弱虫」と「鎧袖一触」という拙ブログと一緒です。「また」が一つ多いだけです。
大石先生が、「そう、先生弱虫」と言う場面は、小6の教え子の男の子たちが、口々に
「軍人になりたい」というのに対してそれをやわらかに否定する場面での先生の発言です。
女の子の進路については、貧乏ということと女子差別が背景として描かれます。一番優秀な子は、奉公に出ます。やがて病を得て死亡します。お金持ちだった家(庄屋)の子は、夜逃げします。映画では描かれませんが、原作の小説ではその子は「どこかで女給」となっています。料理屋の一人娘は、歌手の学校に行きたいのですが、親に反対されて家出を繰り返すこととなります。
男の子たちの軍人希望の背景にも、貧乏があります。軍人になることは、安定した身分と給料・名誉を得、出世のチャンスがあります。自分の生命の危機と引き換えですが。
美しい瀬戸内の純朴な農村の子どもたちや、私の大好きな唱歌の似合う美しい里山・農村は、「満蒙こそ日本の生命線」と言う軍部・右翼の支持基盤となります。それは、地主制と財閥に搾取された貧しい農村より、もっと窮乏化している中国の農村の犠牲の上に生き延びようということでした。
現在、集団的自衛権行使容認の若者が多い(多分)背景には、現代の貧乏がないでしょうか。
大学を出ても正社員の道は限られている。正社員といえどもひどい労働条件だ。こき使われる。実質賃金は下がっている。将来年金なんかもらえるかどうかわからない。
落ちぶれる日本の傍ら、韓国や中国が台頭している。俺らには関係ない戦前のことをいつまでも愚痴愚痴と言われる。何か中国や韓国がのし上がったせいで俺らが貧乏になったんじゃないか。そんな中国や韓国なんかやっつけろ。
そんな雰囲気ないでしょうか。
戦前の農村の貧乏の理由は、地主制と財閥の経済支配とそれを応援する政治でした。軍人になってより貧乏な中国を侵略するより(正確には軍人は侵略する政治の手先)、国内改革が貧乏から抜け出す道でした。
戦前の農村の子どもたちは、小学校で終わる人が多く、しかも貧乏の理由を追求する考えは、政治により抑圧されました。「地主制がまずいんじゃないか」なんて考えることが難しかったのです。
「自分たちの貧乏の理由は何か」と考えることが今のところ出来ます。民主主義と言うそれを変える手段もまだあります。
中国や韓国の若者も困っていることが多いんだろうと思います。日本の自衛隊が海外で武力行使できるようにすることが、日本の若者の貧乏や中韓の若者を幸せにするとは思いません。
「二十四の瞳」は、昭和29年=1954年制作の映画です。この年自衛隊が発足しました。
当時の政府の言い分は、自衛隊は、近代戦を遂行できる実力はなく憲法の禁ずる戦力ではないとのことでした。もちろん行使できるのは個別的自衛権のみです。自衛隊が海外に行くことは想像もしてませんでした。
昭和29年ごろは、東西冷戦が激しく安保状況は、現在より厳しかったと思います。何せソ連・中国・北朝鮮が資本主義国をやっつけろと言う時代でした。今は、日本の資本で中国国民生産のユニクロ製品を日中の人々が着ています。
昭和29年当時より、安保状況は穏やかになり、自衛隊はすごく強くなり、中国と日本の経済関係は相互依存で、日中韓いずれも資本主義で、いずれも少子高齢化と言う共通の社会問題を抱えている今、「自衛隊の海外での武力行使」なんて考える必要があるでしょうか。
優良企業を優遇して他の企業や国民を虐げる、政権の目くらましかもしれませんよ。