「禁じられた遊び」を見て

近頃古い映画を見ています。
暑くて、早朝の農作業とDVDで過ごしています。(仕事以外では)
本は、暑くてなかなか読むことが難しいです。

40数年ぶりで、映画「禁じられた遊び」を見ました。
映像は鮮明でしたが、イエペスのギターは、音が割れていました。

当時一番ショックだったことは、パリから逃げる市民を戦闘機が襲うことでした。
寮の先輩は、「そんなこと当たり前だろう、総力戦なんだから」と言いました。私は、「なるほど」と言いながら、やはり腑に落ちない気持ちがしていました。

その後、非戦闘員や非武装地域を攻撃することは、ずっと前から国際法で禁止されている違法行為と言うことを知りました。第二次大戦では、ドイツも日本も米英もソ連もこの犯罪を犯しました。

日本国に自衛隊も米軍もなければ、非武装地域となり、日本を攻撃することは国際法違反となります。日本国憲法の本来の非武装路線の基盤の一つと思います。ここから、安保政策を再考するのもいいかと思います。

さて「禁じられた遊び」ですが、反戦の映画として有名です。今回見て、ミッシェルの
戦争孤児ポーレットへの強い愛の映画のようにも思いました。
ミッシェルは、ポーレットのため、十字架を盗みます。ポーレットの死んだ犬がさびしくないように、他の動物と一緒に十字架で飾ります。人のお墓の十字架を盗んでです。自分の兄の十字架をも盗みます。やはり強い愛なのかな。ミッシェルは、何故そんなことをするんでしょう。

十字架は、神の愛の象徴でしょう。とても大事なものでしょう。それを盗むという犯罪を何故犯すのでしょう。
何故ミッシェルは、そんなことをするんでしょう。いや、監督ルネ=クレマンは、ミッシェルに何故そんなことをさせたのでしょう。

「隣人愛で生きよ、それを支える神の愛を信じよ=神への愛」をうたう人間が、ただ逃げ惑うだけの市民を殺すと言う酷い犯罪への強烈な批判があるんだと感じました。

パレスチナの地では、現在もポーレットを作り出しています。隣人愛ではなく憎悪で動いています。

民族や国家と言う視点を出来るだけ弱めて、物事を考えた方が良いと思います。


個人と個人、市民と市民、人と人と言う関係であれば、案外仲良く出来るのではないでしょうか。