原発立地自治体の首長は、自分勝手じゃないか/邪宗門(1)

今朝の朝日新聞一面・三面には、原発再稼働について「周辺自治体の同意を必要とするどうか」についての自治体の長に対するアンケート結果が掲載されていました。

周辺自治体に聞くと、必要が54%、不要が15%、立地自治体に聞くと必要が9%(3自治体)不要が38%(12自治体)とのことです。他は選択せずという回答で、多分判断保留ということでしょう。

判断保留という首長は、無責任だと思います。周辺自治体首長の不要15%というのは私には理解できません。判断留保(お任せ)と言うことかなと思います。判断保留を除いて、多数で言いますと、周辺自治体が「俺たちにも判断させろ」と言っているのに、立地自治体が、「いやおれたちで決める。君たちは口出すな」と言っていることだと思います。

立地自治体の首長の意見は、自分勝手と思います。
一旦事故が起これば、周辺自治体に被害が及ぶのは明らかです。福島第一の事故は、周辺自治体どころか遠くの自治体の住民まで影響を及ぼしました。日本自体の評価の低下や電気料の値上げを考慮しますと全国民に影響しました。

全国民への影響と後世代への負担(放射性廃棄物の処理ー現在見通しまったくなし)を考えるなら、国民投票で決めるべきことです。
立地自治体の脱原発の支援もしなければならないからです。なぜなら、全国民の多数意思で脱原発と決定すれば、これまでの原発推進からの大転換ですから、立地自治体の不利益も生じるだろうからです。

日本国民は、国民投票で決定する運動すべきです。
私は、次の選挙では、原発全廃を言う政党を支持しますが、国民投票で決定するという政党も場合により支持します。


現政権は再稼働を目指しています。そのため、再稼働に関しては、「自治体の理解を得る」となっていますが、法的には不必要とのことで、自治体の範囲も明示してないそうです。(朝日新聞11/4キーワード)

まったくずるい無責任な政府です。安全面は、原子力規制委員会に任せ、地元の同意は、どこまでの同意が必要か明示しません。しかも避難計画もは地元任せです。実際完璧な避難なんて出来っこありませんよ。そうすると事故なんて起きないよ、と言う安全神話の復活ですか。こんな政府をつくった政党を支持するのは止めましょう。

話を戻しましょう。こんな国民やこんな政府のもとで大変申し訳ないのですが、それでもやはり、立地自治体の長は、周辺自治体の意見も聞くべきなんじゃないでしょうか。
繰り返しますが、事故が起これば周辺自治体に迷惑をかけます。避難では周辺自治体のお世話になるはずです。立地自治体に入るお金は、全国民の電気料金からもらっているものです。

原発停止で原発関連の雇用は失われているでしょう。その雇用が生む需要も落ち込んでいるでしょう。困ることだと思います。

しかし、「俺たちは困っている。だからこうする、周りは何も言うな」は、身勝手すぎると思うんです。周辺自治体が、再稼働に反対となったとします。そしたら周辺自治体と一緒に、電力と日本国に「俺たち、他に迷惑かけたくないんで再稼働認めない。だから脱原発のため、支援してくれ」と言えばいい。国民はそれを応援すると思います。脱原発を支援する、そんな政府を作ればいいと思うんです。

少なくとも周辺自治体の意見は聞いてください。

話は変わって、(本当はこちらを書くつもりだったのですが)高橋和己「邪宗門」について書きます。

ブログ知人のエポム様に古処誠二を紹介され、読んでいく中で「ルール」に当たりました。これは、太平洋戦争フィリッピン戦線での人肉食の話です。いや正確には、軍隊の本質とか人間のあり方とかを人肉食という極限状態から描いたものと言えると思います。

この人肉食の話で、高橋和己「邪宗門」を思い出し、今再再再読をしています。「邪宗門」は、大学4年の時、二日二晩ほぼぶっ続けに読んだ本でした。そんな経験は、それ以前もそれ以後もありません。その後壮年時代に2度読みました。今高齢者の入口に立ち、読み始めましたが、まだ半分くらいしか読み進んでいません。

「おなつかしゅう」「おかえり」・・・この小説の舞台である新興宗教「ひのもと救霊会」(勿論仮想の宗教団体です)の挨拶です。この宗教集団では、初対面の人に対しての挨拶もこうなんです。

20数年ぶりに「邪宗門」を読んで私は、懐かしい人々にあったと思いました。特に女性です。行徳まさ、行徳八重、行徳阿礼、行徳阿貴、堀江駒、堀江民江、赤木かずこ、・・優しく強い、あるいは強く優しい(阿礼は強く強くかな)人々でした。男では、佐伯医師、西本園長、植田克麿、吉田秀夫。
主人公千葉潔、教団第二代教主行徳仁次郎、新聞顧問中村鉄男、最高顧問加地基博、
足利正、・・・教団の運命を左右した男たち、その思想・行動は、ある意味尊敬しますが、一方私は、身構えてしまいます。・・・俺は、このようには出来ないなあと。

そうです。この「ひのもと救霊会」は、戦前、大日本帝国の理念とぶつかり徹底的に弾圧され、戦後は、本当の自立・自由・平等・連帯を求めて米国占領軍とその手下日本国政府と真正面からぶつかり、壊滅した仮想の宗教集団です。

それにしても高橋和己は、すごい作家です。これを書いた時は、30代半ばです。知の巨人とは、彼のことでしょう。いや、知識・教養ではないんです。売らんかなじゃ絶対ありません。全身全霊で、自分の生き方を問いつつ書いているという気がします。

私は、高橋和己をよく知りません。読んだのは「邪宗門」と「悲の器」だけです。中国文学を専攻し、大学紛争時代全共闘を支持した京大助教授だったそうです。「邪宗門」の思想から言えば、さもありなんと思えます。その後40歳でがんで死亡とのことです。生きていて欲しかった。その後どれだけのことを書いたか?
しかし、それは、高橋和己にとって苦悩の一生だったに違いありません。

「もしその時、その老婆が通りかからなければ、いや通りかかったとしても老婆に背負われた少女が発見しなければ、その少年の命はそこで終わり、一つの苦悩は蕾のままで朽ち果てていたはずだった」(少年・・千葉潔、老婆・・堀江駒、少女・・行徳阿貴(序章、その一の1)
高橋和己は、昭和史のなかでの日本人の幸せを考えるという巨大な苦悩の人であったとおもいます。