女と男/邪宗門(最終)

ひのもと救霊会は、男女関係に特別な制度を持っている。教姉教弟(あねおとうと)という制度である。未亡人や棄婦、結婚の機会を逃した女工等に、婦人側に優先的選択権のある、青年部独身者との法律関係外の男女関係を許可していた。それは、単なる身の回りの世話で終わってもよいし、それ以上の関係に進んでもよい。女性の側の優先的選択権の代償は、青年が結婚するときは、女性の側から身を引くと言うことである。勿論青年は、教姉を結婚相手に選んでもよい。
それは、当時の男尊女卑の制度と精神から女性を救おうという考えだからである。<以下ネタばれ>
>人類最初の階級闘争である雌雄葛藤の末の、男性による女性の制覇、・・・、それを正当化するためのイデオロギー。それが、三歳の児童にも見抜ける嘘を全世界に普遍させ、何千年かの真理となった<
>宗教が人を救おうとするものである以上、男による女の抑圧を、その秘密の性の面においても解消としなければ、それは宗教の名に値しない<
>女だけに要求される貞操観念や処女崇拝も家柄を重んじ私有財産制を守らねばならぬ支配層の動議に過ぎず、公娼制度がその裏返しの糊塗策とおしえられ、独特の廃娼運動が展開された<(いずれも第一部第二十章の1)

私は、この制度を理屈ではいい制度と思うけれど、気分的には受け入れがたい。女から選ばれるというのがいやだ。男のがわに拒否権があるのかどうか判然としない。多分ないのであろう。結婚では男に選択権があるから、世話してもらうのは、そして単なるセックスの相手としては、いいのかもしれない。それでも俺はいやだな。男は、惚れて勇を決して申し込み大抵振られる存在でいい。俺はやはり、「男はつらいよ」の寅に近いんだな。好きでも嫌いでもない女から選ばれるのはいやだな。どうするか困る。好きな女から選ばれるというのはどうだろう。やっぱり、あまりよろしくないな。
何故だろう?古い感覚を持っているのだろう、俺は。古事記の初めのころ国産みの話がある。女神から「ああいい男」と申しこんで国を産んだら、流れてしまって、男神の方から「ああいい女」と申し込んで国を産んだらうまく国土が生まれたという話である。読んだ当時、男尊女卑思想と思ったが、やはり俺もそのけがあるのかも知れぬ。幸い?わが人生において、女性から好きよと言われたことがないので、こういう局面にであったことがない。・・・ひょっとしたら、案外メロメロだったかもな。
今の若者たちは、どちらが選ぶかなんてまったく関係なさそうだ。お互い選び合い、棄てあう。元彼、もとかの、・・・それでいいさ。その方が自然だ。戦後日本国憲法が施行された時、農村の青年たちが一番歓迎したのは、憲法9条の平和主義ではなく、憲法の「、男女の合意のみによる結婚」いう考え方だったそうだ。さもありなん。戦前「野菊の墓」のような、どれほどの男と女の涙が流れたか。

閑話休題。話がそれた。
開祖が女であり、女を大切にしようと言う教団であるので、この小説では、女の活躍が目立つ。そしてそれが素晴らしい女性たちなのである。女たちに比べて男達は、思想に囚われ、意地を張り、自滅していくかに見える。
教団の最高の知性、元京大教授・新聞社主幹中村鉄男の公判での理路整然とした分析、かつ毅然とした態度、それはすごいと思う。そして学問を実践に移そうとして大学を辞め、ひのもと救霊会に自分の理想をかけた。学問馬鹿じゃない。これは尊敬に値する。(第一部第18章の1)しかし、単なる意地っ張りじゃないかとも思える。
教主行徳仁二郎と分離独立した皇国救世軍の小窪徳忠の討論内容は深い。が、生活から離れた思想の上滑りじゃないか。
教団の最強の志操の堅固の足利正は、立派と思うが、思想にとらわれ過ぎていないか。周りを見てないんじゃないか。女達から見るとそう見えるのではないか。
教団が弾圧され、教主以下幹部が逮捕され、牢屋に入っている時、教団が公的活動を禁止された時、細々ながら支えたのは女たちである。
徳仁二郎の奥様八重、長女阿礼、次女阿貴彼女らが教主代理、継主として教団を支えた。その周りには農民の女たちがいた。素晴らしい女たちである。
たとえば八重。
徳仁二郎は、獄中で妥協をしてしまう。(これにより私はかえって、仁二郎を身近に感じる)それが検察の作戦で、明らかになっていく。温泉での二人のすがた。>以下ネタばれ<
>しかし、隠しようもなく、傷ついた野獣のように布団の中をのたうちまわる夫の姿が映った。
「わしは耐えに耐えた。しかし、わしは、・・・」
「お静かになさいませ」無限の悲哀をこめて八重は言った。「言葉でしか身を守るすべのない時に、ただ一つか二つ心にもないこと言ったからとて、何を愧ずる必要があります。いえ、たとえ恥ずかしいことがあっても、それを人に見せてはなりませぬ。御うろたえなさいますな」おう、と仁二郎は悲鳴を上げた。・・・「あなたの御気持ちを鎮めるためなら、私はここで裸踊りでもいたしましょう。屈辱も苦しみも、女に注げば幾分は癒えるもの。教徒には私が何とでもつくろいます。さ、私を弄びなさいませ」<(第一部第12章の2)
佐伯医師は、八重について言う。
>「今も頭に残っている情景がある。わしだけじゃなく、神部の人々が百二十人も一度に警察に捕らわれた時・・・、警察官がその人をとらえようとした時、朱の緞子の覆いに包んでいつも帯の間に挟んでいた短刀を抜いて、自分のくびに当てながら、女には身だしなみと言うものがあります。着替えてまいります。お待ちなさい、と言った。空気を引き裂くように良く響く声だった。警官たちも気おされてね、よう近寄らなんだ。そのままの姿勢で、残る人々に後事をてきぱきと依頼し、そして焼け残った屋敷へと消えていった。ああいうのが、ほんとの大和撫子なんだな。日頃は月の光のようにやさしくて、控え目で、しかし夫が病気に倒れると、でしゃばりもせず、うろたえず、やるべきことはやっていた。久しくあわんが、その後、どうされたか」(第二部第1章の2)
佐伯医師は、八重のことが好きだったのだと思う。それが、佐伯をひのもと救霊会にとどめおいた理由かもしれない。

とどめ置くといえば、吉田秀夫は、阿貴にひかれて結局、考えの違う千葉と行動を共にする。
吉田は言う。>「正直に言ってくれてもいいと思うね、千葉。君が立ち去りかねている理由と、君が高校時代から温めていた理念を救霊会に委任しようとする衝動が一番不幸な形で結びつくのは良くない。・・・一所不在の生活を何なら一緒にやってもいいと思っている。しかし、救霊会に定住したのは、明らかに別の原理、原理と言って悪ければ愛着のためだった。いや、君だけのことを言っているんじゃない。俺自身がそうだ。阿貴さんが、いや継主がいなければ・・・いや同じ援助を依頼されるにしても武骨な男に頼まれたなら君との関係はあっても、おそらくここにはいないだろう」(第3部第23章)
阿貴は、教主の家に生まれながら小児まひのため堀江家で育てられる。しかし、素直な控えめな普通の女らしい女の子だ。優しい人だ。吉田でなくとも、可愛く思う。男から見て可愛いひとだ。保護したく思う。彼女は、小さいときから、堀江駒に拾われた千葉潔が好きだった。大きくなってもそうだ。
長女の阿礼は、違う。強烈な意志と誇りを持った女だ。教師をやりこめる女学生の阿礼。学生のストライキの応援に単身乗り込む阿礼。彼女が弾圧後の教団を渾身の力を込めて支えていく。女では、阿礼が一番良く描けているのではないか。ヒステリーを起こす阿礼。教団を守るため、教団を裏切った皇国救世軍に嫁ぐ阿礼の苦悶。そして、教団の規則を破り、教団を裏切り、妹を裏切り、千葉潔に教団を与える。危機が迫っても千葉に寄り添い嫣然と微笑む。
阿礼の最後は、壮絶である。
阿礼は、植田文麿と千葉潔を愛した。・・・千葉潔は、誰を愛したのだろう。

思えば、この小説には悪人と思える人が登場しない。裏切り者小窪徳忠だって、保身と時流に乗ったにすぎない。足利正が宗教裁判で糾弾する特高警察梅田も立身出世を目指しただけだ。正門検事もその仕事を果たしたに過ぎない。悪人がいないのは、高橋和己が登場人物の行動の背景・心理に分け入り説明するからだ。(高橋和巳は、本質的に優しい人なのだと思う)
悪を悪と知っていながら行うのが悪人とするなら、悪人は、千葉潔、その人だろう。千葉は言う。>「悪を根絶するのは、・・・おそらく悪のみ」<(第3部第27章の1)理想の実現のため、殺人・暴虐と言う悪につながる革命は、許されるか?巨大な問題である。母の肉を食って生きのびた千葉潔だから許されると思うのだ、と思う。他の人はどうだろうか。

阿貴や千葉少年と一緒にある時期生活した堀江民江は、千葉潔をよくわかりながら、かつ否定する。堀江民江は、無口な百姓娘である。忍耐強く運命に逆らわない女性のように思える。堀江民江は、千葉と阿礼の陰謀に気付く。彼女は、革命の惨状を恐ろしいと批判する。
私は、民江が京都に行って千葉潔を神部へ連れてくる場面が好きだ。無口なまま、嫌がる千葉を連れてくる。根負けした千葉が頭にきてぶとうとする。民江はぶたれるのが当然と言う風に目をつぶって、微笑して待つ。すごい。これは、自分のためじゃない。阿礼のために、千葉を神部に戻すためだ。こんな女もいる。この場面で千葉の優しさも感じる。そうだ、千葉も人間的な面を実はところどころで見せている。
最後に民江は、千葉潔の餓死に殉死する。何故殉死するのだ。民江もまた千葉を好きだったのか?そう、前は好きだった。しかし、いや、そんなレベルじゃないな。民江もまた救霊会の信者。苦しみの最後に、自殺も認める。全ての罪業を打ち消すために。千葉は最後に何か言おうとした。民江は、そっと優しくうなずいた。千葉は何を言おうとしたんだろう。民江は何を受け止めたのだろう。

邪宗門」の魅力は、真の自由・平等・自治とはどういうものか、それをどのようにして達成するか、あるいは、あるべき宗教の姿を追求した魅力である。それを昭和と言う舞台で追求した力作である。その格闘が魅力である。
今から約50年も前の本なのに、東大教官が新入生に読むことを勧める本の第8位(いつのだか、どんな部門なんだか、知らず、未確認情報)にあるという。さもありなん。いろんなことを考えさせてくれる本であるから。
しかし私にとって、一番の魅力は、登場人物たちの魅力である。前期高齢者の入口にたつ私が、今後また読むかどうかわからない。今回読んだ記念に長々感想を書いた。さよなら、救霊会に集う人々よ。