近くて遠い「千鳥ヶ淵」と「靖国」

私は国会議事堂を目指して皇居を反時計回りに歩き始めた。

深い濠だなあ、江戸城は巨城だ。巨大権力だ。それを明治維新後、天皇を担ぐ権力が受け継いだ。ちょうど和気清麻呂像があった。國体護持なんて旧字体で書いてあった。彼もまた天皇を担ぐ権力に、担がれて像になっている。今、この御城の奥に平成天皇がいらっしゃる。彼と彼の奥さんは、戦後民主主義と平和主義の擁護者のようだ。それは当たり前だ。
平成天皇は、戦後父親が処刑されるかも、一家が消滅するかもと言う恐怖を覚えたはずである。それを救ったのが象徴天皇制と言う日本国憲法に示された制度である。政治権力者は大変である。決断による巨大な結果に身がふるえるだろう。

安倍首相は、なにも考えない。決断の重さなんて少しも考えない。俺の考えは正しいだろうかと言う自分を疑う自省心が弱い。真理を求める気のない人だ。
しかし、首相は、いつか辞める。天皇は辞められない。苦しいと思う。そんなことから救ったのが象徴天皇制だ。「国民とともに」を標榜して政治的責任なしに生きていける。だからこそ、天皇一家は、憲法の規定を待つまでもなく、憲法の擁護者なのは当然である。

そんなことをぼんやり考えながら、濠端を歩いていくと、「千鳥ヶ淵公園」と言う字が目に飛び込んできた。「千鳥ヶ淵墓苑」が近くにあるらしい。行ってみたい。派出所で聞く。俺は、どうやら皇居の内側の道を歩いてきたらしい。
戻って「千鳥ヶ淵墓苑」に着く。雨の中である。一人の人が参拝し終わったところだ。私も続いて参拝する。100円で献花をする。線香はない。無宗教の国立施設だからだ。コメと塩がある。神道か?違うな。戦没者には餓死者が多いと聞いた。馬鹿な戦略・戦術で死亡した人達も食べたかったろう。

私は、般若心経と舎利礼文を唱えた。昭和天皇と平成天皇の和歌が向かい合っている。
去ろうとした時、雨が本降りになった。私は雨宿りして、物思いにふけった。


次の朝、靖国神社に行った。巨大なコンクリートの鳥居をくぐる。大勢の人がいる。
本殿前で戦没者たちに参拝した。
国家により、あるいはこの神社により、いかなる意味をその死に与えられても、やはり
自然な死ではなく、国家の行為によって命を断たれた死であり、かわいそうと思うから、心から祈った。

遊就館を見学した。兵器の展示と明治以降の日本の戦争の歴史の展示が中心である。歴史に対する見方は偏っている。日本に都合のよいことに偏っている。そして日本国の失敗を
罪悪をみようとしていない。
たとえば満州事変・満州国。日本の生命線と言う政治軍事指導者、国民の考えにより、
日本軍の謀略によって、傀儡国家満州国を建てたことをすっぽりぬかしている。南京事件と言う言葉はあるが、南京占領後、中国便衣隊への掃討作戦が行われたと書いているのみである。数に差はあれ、一般国民を虐殺したという行為はあるだろうに、それを無視している。大東亜戦争は、ABCD包囲網があった故にやむなしと言いたいようである。
こんな、偏った歴史観では、世界に笑われると思う。

しかし、一宗教法人だからどんな歴史観を持ってもいいと思う。だからこそ、政治家は参拝してはならない。また、分祀要求には応じなければならぬ。さらにA級戦犯は、合祀してはならぬ。ホントは、戦前の大人全てに侵略に対する罪がある。A級戦犯とは、戦前の日本の罪業を背負ってくれた人たちである。かわいそうな存在と思う。しかし、彼らを顕彰してはならぬ。多くの人が参拝するこの神社に、政治的存在を祭ってはならぬと思う。
世界は、なんだ日本は戦前の侵略を認めないんだ、悪いと思ってないんだと思うから。それは日本にとってまずいと思うから。そして彼らはやはり顕彰に値しない罪びとと思うから。罪の重さの重い人たちと思うから。もっとも昭和天皇が一番重いとは思うが。また、
戦争を命令した彼らとその命令にしたがって死んだ者を一緒に祀ってはならないと思う。
ごまかしだと思うから。

戦艦大和の砲声と言うものを聞いた。その説明の感激に上ずった声。兵器マニアの狂気の沙汰と言う感じ。あれって、あの元航空自衛隊のトップだった男の声じゃないかと思ったが?名前何と言ったっけ。そう、田母神と言う人の声かも。
見て良かったと思うのは、あの人間魚雷「回天」の展示である。魚雷に人が乗って体当たりする兵器である。長さはあるが高さはない。特攻隊員は、立つことが出来ないだろう。そして爆薬とともに敵艦にぶつかるほかないだろう。
この行為を美しいとみて展示しているのだろう。この行為を尊いとみて展示しているのだろう。

しかし私は思う。この展示するものたちには、想像力が欠如していると。自分がこれに乗って敵艦に体当たりすることを想像してみたまえ。・・・美しいとか尊いなんて言えるのは、自分がそういう立場にならないからじゃないか。あるいは、自分の愛する人が特攻隊員だったらとは考えないのかと思う。想像力の欠如である。

「国家のために死ぬこと」は簡単にいいとは、言えない。人は、家族とともに生きていくことがいいと思う。遺族は本心では思うだろう。「生きていてくれたら良かったのに」と。そう思うだろう。その気持ちを打ち消さんとするのが、この靖国神社の役目だと私は思う。国家に命をささげるのは、褒められるべきこととして、顕彰する装置が靖国神社だと思う。

人を殺したり殺されたりするのは悪いことだ。そしてそれはどこの国民も同じだ。国家同士はぶつかり合い、国家は、他国民を殺せと国民に命じるけれど、国民同士は、殺し合いはしない。憎み合っても。殺すのは犯罪だから。国家が殺せと命じる殺人行為は、犯罪じゃないことになっている。しかし、それは、自明のことか。そう簡単ではない。戦後の日本がそれを証拠づける。他国民を殺しちゃいない。
戦後のこれまでは、国家も、他国民を殺すのは悪いこととして戦争を放棄してきた。安倍安保法制はその原則を覆そうとしている。

「国家のために死ぬことは名誉なこと、いいこと」とは簡単には言えない。しかし、
政治家がそう言っては絶対いけない。「国家のために死ぬことがいいことかどうか」を権力が決めるのは、悪いことだ。権力が決めることじゃない。故に私は、政治家の靖国参拝を認めない。

靖国神社は、一宗教法人である。いかなる主張があってもいい。しかし、世界に笑われる歴史観じゃまずい。

最後のところには戦没兵士の遺影と英霊へ送る手紙特集である。そうして最後は、商品販売である。この商品販売にも違和感を受けた。金もうけじゃないか。自然な死を召しとった上、それを肯定し推奨し、そして商売にしている、私にはそんな風に見えた。

靖国神社を去って坂を下りると「千鳥ヶ淵墓苑」と言う→があった。また歩いて行った。すぐである。近い。

しずかなたたずまいである。だれもいない。私は500円を入れて花一輪をささげた。またお経をあげた。だれもこない。
靖国神社とのこの差はなんだ。靖国神社は、戦前の歴史肯定と国家に命をささげることを肯定する教育機関と金儲けの神社になっている。ここはほとんどだれもかない。名前がわからぬ兵士や国民だからか。靖国は名前のわかる兵士である。

参拝者お休み処と言うのがあった。そこにはノートがあった。私は自分の思いを存分書いた。その間参拝者は、一人ずつ2名のみ。
かの靖国神社との違い。
死者はやはりしずかに眠らせた方がいい。靖国は死者を利用している、そう思える。この大きな違い。靖国千鳥ヶ淵は近くて遠い。

私は、この施設の維持費が募金も使われていると知り、募金して墓苑を去った。
すぐそばは、千鳥ヶ淵である。あのさだまさし絶唱風に立つライオン」の歌詞にある
さくらの名所である。ここの桜をみたことはない。
すぐ下に貸しボート場がある。桜が満開の時には、ボートに乗った人々がいっぱいだろう。家族連れや恋人や友人同士。
それを無名戦没者たちがみていることだろう。平和っていいなあと。うらやましいなあと。そして靖国神社からも、戦没兵士がみていることだろう。平和っていいいなあと、うらやましいなあと。
自分の犠牲の上に、この平和があるから満足だと思うかもしれません。しかし、俺もそうしたかったと思うとも想像します。

あなたは、彼らがうらやましいなあと思うと思いませんか。ましてや、若い兵士であったなら。・・そうあなたは思いませんか。

私はそんなことを思いながら、千鳥ヶ淵をあとにした。