樹木希林のオフィーリア・死

いやーびっくりした。今朝の新聞の巨大な広告にである。

樹木希林がオフィーリアになって小川に浮かんでいるのである。

コメントに「死ぬときぐらい好きにさせてよ」とある。

シェークスピアの「ハムレット」も、ミレーの「オフィーリア」の絵も、名前を知っている程度で、詳しいことは何も知らない。しかしこの絵は、インパクトが強い。私にとっては、美しい死体というのが衝撃的である。川に浮かぶ死体は、不気味という感じを受ける。死は穢れという感覚が私には強い。西洋は違うのだろうか。

樹木希林という人も名前ぐらいしか知らない。役者ということぐらいしか知らない。
しかし、「死ぬときぐらい好きにさせてよ」ということは言いそうな人という気はする。

この紙面を見て、これは何だと見まわして、左下に小さく「宝島社」と見つけて、あ、この会社の広告かと気づいた。うまい広告だ。頭にすりこまれた。

好きに死ねるか?これは難しいな。母は「畑でぽっくり」が希望だったが、認知症の末
衰弱死。脳や心臓による突然死、これも希望どおりじゃないな。自殺以外は、なかなか
自分の意思で死を選べないな。

ガン死のように生に期限を限定された場合、「死ぬ時ぐらい好きにさせてよ」は、成立するかも知れない。ただ好きにすると言っても、それは限られているな。

昨日「母と暮らせば」を見た。長崎医大医学生の被曝死。授業中に炸裂する原爆シーン
は、印象的であった。「あ」か「お」かの声があり、彼の世界は一瞬で消える。インク壺がぐにゃりとする。

死を意識しない一瞬の死は、どのようなものか。苦痛はない。
津波にのまれた人はどうか。波にのまれる瞬間の恐怖はあるだろう。もまれる中での苦しみも少しはある可能性はある。

原爆による直接的死は、他者による自分の死を認識しえない苦痛のない死と言える。

しかし、自分の生も死も自分のものである。それを他者に決められたくはない。苦痛があっても、恐怖があっても、生も死も自分のものである。

映画では、死んだ医学生の心が、母の前に現れる。彼は自分の死を知らない。やがて、自分のものである自分の未来を他者に奪われたことを自覚する。死を自覚する。恋人との未来、医者としての希望を断たれたことを知る。不条理を知る。・・・最後は、生者の幸福を願って、母とともに消える。

しかし、生きている我らは、この場合の他者、すなわち殺人者の責任を追及しなければならぬ。殺人者を生んだ多くの人の行為の責任を追及せねばならぬ。再び、他者によって=我らによって、生を切断される人が出ないように。