酸っぱく甘く苦い愛などー志水辰夫の短編「いまひとたびの」ー

志水辰夫の短編小説集「いまひとたびの」を読んだ。
昨年「行きずりの街」「背いて故郷」という長編小説を読んで面白かった作者の短編集である。

いいなあ。実にいい。9編のうち、1編を除いて全ていい。以下ネタばれ。

(1)酸っぱく甘く苦い愛
「忘れ水の記」

主人公は、30年以上前の愛の面影を求めて、彼女が女将をしていた旅館に泊まる。彼は、手放してはいけないものを手放したという後悔がずっとあった。しかし彼女は、他人の妻となり女将となり、そして13年前交通事故で死んでいる。その旅館に泊まって、彼女の、
主人公への愛のあかしを知る。最後に別れた大学の時の思い出とともに。

「ゆうあかり」
ある朝、昔愛した寧子から、妻あてに手紙が届く。彼女と妻と主人公は、学生時代の同じ仲間である。経営している会社に,
土曜出勤していると、友人がやってくる。彼も同じ仲間であった。友人は、酒を飲みながら、今でも続く寧子への片思いを告白する。友人は、今病院で寧子の命が尽きかけているという。友人の言葉の中に、寧子の、主人公への愛が見える。主人公は悔やむ。「自分は寧子を愛していた。寧子も自分を愛していた。それを知りながら、言えなかった」と。帰宅途中、思い出の駅で寧子を見た。それは、寧子の別れの挨拶と確信した。

ホントは成就しうる愛を失った長い後悔、そして多くの時が流れた現在、彼女の愛を再確認する。その苦さ。そして自己愛。

男たちには、若い時に愛した女性への憧憬がある。その女性たちが、一緒に生活すれば、憧憬とは違う部分があるのは間違いないだろう。つまりは愛した女性像は、男の作った妄想なのだ。故に失った愛こそ美しい。
人生の現実は、苦闘の連続である。地位を得ても富を得ても安定を得ても、犠牲にしたものも多い。しかしまあ、しばしの間、酸っぱく甘い飲み物を口に含んで、感傷に浸るとしよう。

(2)死に臨んで人生は美しい
「赤いバス」

不治の病の主人公が、山荘で余命を過ごしている。知恵遅れの少年ミツオに出会う。少年は、いつも赤いバスで帰省する姉を待っている。主人公と読者は、この姉が、川でおぼれかけた少年を助けるため、死んだことを明かされる。ある夕方、赤いバスが村の停留所に止まり、少年の姉が降りてくる。二人は、手を取り合いながら仲良く桑畑に消えていく。桑畑には、煙が流れる。桑畑の奥は墓地。・・・今夜はお盆であった。
小説は、主人公の思いで終わる。「そうだ、私もあと一年は、生きのびてやろう。来年のお盆に、またミツオとあの姉を待とう。そして次のお盆からは私もあのバスで帰ってくる」
一個の生命体にとって、死は無か、そうかもしれない。しかし、お盆に帰ってくるのかもしれない。私は死ぬ時、無になると思うか、お盆に帰ってくると思うか、好きなように思って死のうと思っている。

「夏の終わりに」
重い病を抱えた主人公が、東北の田舎の、今はだれもいない実家に戻っている。仕事も辞め、ここで余命を過ごそうと思っている。そこへ妻が短い休暇を過ごしにやってくる。妻はキャリアウーマンのやり手だ。自分のリタイヤーの思いを言うと、妻は、自分も仕事を辞め、田舎暮らしをするという覚悟を示す。
妻が帰郷する駅のシーン。妻が自分の病に気付いていると分かった主人公は言う。

「ここに住むのはやめる。できるだけ君といたいんだ」
「私はあなたに好きなことさせてあげたいのよ」
「だから一緒にいたいんだ」

死という別れを目前にした夫婦の、「二人の人生」の最後の輝きがここにある

「いまひとたびの」
地方名家の家に生まれた叔母は、奔放な人生を送る。ある日主人公は、その叔母からドライブに誘われる。叔母は、自分が運転する車の事故で夫をなくし、自分は、車いすの生活をしている。叔母とのドライブ。ドライブの最後に、叔母の頼みで、その事故の現場を見る。主人公は、叔母がもう長くないことを知る。このドライブは、叔母の「人生との決別」だったのだ。

私が死を自覚した時、も一度見たいあるいは経験したいことは何だろうか。

そのほか、これらと毛色が違うシビアな「嘘」も傑作だ。

志水は、短編もいいなあ。いい小説に当たった今年は、縁起がいいかもしれない。