いざりばたと回天

連想って不思議だ。

「夜あけ朝あけ」では、結城紬を作るときに使う「いざりばた」が出てくる。

正司たちの母が、美しい紬を織る器械が「いざりばた」である。

娘えつ子(小学校6年)の目を通していざりばた(機)は、
「千年もの大昔から、ずっと同じ形だというこのはたが、なんだかうすきみわるかった」「織るひとが、まるでいざりのようなかっこうで、はた(機)を織るところから、みんないざりばたと呼んでいるが、えつ子には、はたそのものが、人間のいざりのような気もするのだ」と描かれる。

えつ子は思う。
「お母さんは、頑丈な布帯で、自分の体をはたにしばりつけておく。一寸の長さに、七十本も八十本もぬき糸を食うこの紬おりは、二尺の長さの樫の杼のほかに、お母さんの全身の力をすいとっていくわけだ。だからお母さんはあんなにやせているのではあるまいか、
・・・ほんとにおかあさんは、いざりばたの魔法使いに食われていくような、不安なきもちになるのだった」

このえつ子の不安が現実になる。母親は、農作業中のけががもとで亡くなってしまう。
いざりばたで、楽でない姿勢で、ちょっとの時間も惜しんで織る。それは、現金収入のためだ。生活費以外にも支出がある。コメ作り農家なのにコメを買わねばならぬ。供出という政府の強制買い上げで、自分たちが食べるコメが足りなくなり、コメを買わねばならぬのである。過酷な話だ。現代のいざり機は何だろう。ブラック企業か。

このいざりばたで連想したのが、人間魚雷「回転」である。昨年靖国神社で見た「回天」は、長さは十分あるが高さがなく、座って操縦するものだ。腰かけがある点は、いざり機より少し楽か。魚雷を改造したものだから高さがないのは当然である。いったん母船を出撃すれば帰る手段がなく、体当たりする船を見つけられなくとも、死ぬほかない特攻兵器である。

いざりばたは、平和時の織物の器械である。それは過酷な労働を強いるものであった。回天は、戦時の過酷な特攻兵器である。随分と違う。しかし、過酷な労働と過酷な運命、つらい姿勢が似ていることから連想したのだろう。

も少し想像してみよう。いざり機で、趣味で一日数時間織るのなら、楽しいことだろう。それできれいな反物が織れるのなら尚楽しいだろう。ということは、いざり機ということが問題ではなく、小農民の社会的あり方が問題なのである。

この母親は、自分の労働で子を養うと言う意義がある。子は成長する。力も出よう。

「回天」はどうか、特攻隊員は、自分の死にどのような意義を見出したか。
ネットで一人の特攻隊員の遺書を見た。「今自分が死ねば、故郷の父母は死ななくて良い」と。
客観的に見ると、「回天」には、命名の意味する回天=戦局逆転の力がない。客観的には無駄死にだ。特攻隊員には客観的な見方は許されない。
主観的にはどうか。「自分が死んでも、父母も死ぬかも」とか、「自分は死なないで、父母のところにいた方が、父母には良いのでは」、という想いが萌さなかったろうか。そんな想いが萌せば、これはもう地獄の苦しみだ。
若者に、こんな地獄の思いをさせるなら、戦わず降伏した方が良い。

いざり機(ばた)に座る母には、つらくとも希望がある。「回天」に座る特攻隊員には、希望があったか。