クリスティーヌが愛したのは

暇なので(仕事・家事などで忙しい人、ごめんよ)ビデオにとってあった「オペラ座の怪人」を見た。2004年の映画作品である。俺がまだ現役のころ、仙台で見た映画である。

12年前仙台で映画を見た時、最後の場面で、クリスチーヌが怪人を愛しているのか、ラウルを愛しているのか分からなくて、も一度見て、それでも分からなくて、ガストン=ルルーの原作を買って読んだ。

その原作は、読むのが大変だった。文章に装飾が多く、あいまいな表現が多く、ファンタスチックなところが想像しにくく、ほんとに大変だった。しかし最後まで読み通した強い印象は、クリスティーヌの愛のありようではなく、怪人の愛であったように思う。この小説は、怪人の純愛を描いたもののように思えた。

今回見た感想は、この映画は、やはり怪人のクリスチーヌに対する純愛を描いたものということである。

怪人の愛は、純愛か。
怪人は、クリスチーヌの体を自由にできる場面で、自分の性欲のままに行動はしなかった。また、最後の場面で、怪人は、クリスチーヌがラウルを愛していることを確認し、二人とも解放する、そこに怪人のクリスチーヌへの純愛を感じる。怪人の愛を呼び覚ますのは、クリスチーヌの怪人への愛である。

ところでやはり、私には、尚なぞとして残るのは、クリスティーヌの愛である。クリスティーヌは、怪人を愛したのか、ラウルを愛したのかということである。うーん、相変わらず難問であるなあ。

今のところの俺の結論をいうと、クリスティーヌは、両方を愛したと思う。その愛は、ラウルとは、心と体が渾然一体となった普通の愛。怪人への愛は、母性愛に近いのであるまいか。虐げられて愛に飢えている男への憐憫の感情に基づく愛なのではあるまいか。
いやしかし、音楽を教え導いた怪人への尊敬愛もあるようにも思う。セックスに目覚めた乙女の性愛のようにも表現されている。

女性は、僕には分かりませんね。

ところで、怪人の愛もクリスティーヌの愛もラウルの愛も(「オペラ座の怪人」は、映画も・演劇も、三角関係を描いたものとは言えると思う)、自然なものである。自然の感情発露である。自然な感情の発露という意味で、美しく心を揺さぶる。

森元総理の「国歌を歌えない選手は、日本人選手と認めがたい」という発言は、醜い。

上に立つもの(権力者と言ってもいい)の愛の強制は、みにくい。(この場合、君が代への愛への強制)醜悪である。日本国家への愛の強制は、恐ろしく醜い。それは、上に立つ者の自己利益追求の表現にしか、私には見えない。

愛とは、自然な心の動きである。決して強制すべきものじゃない。

自民党憲法改正草案「・・・家族はお互い助け合わなければならない」、なんと、醜悪なことか。俺たちは、自然な感情の流れで愛したり憎んだりするのだから、口出しするな。