「辺野古移設が唯一の解決策」?そんな訳ないだろう/激流と平穏

一昨日、福岡高裁那覇支部が、国側勝訴の判決を出した。「辺野古移設が妥当で、現知事の埋め立て承認取り消しが違法」と言う判決である。

昨日の朝日新聞31面に載っている判決要旨で見ると、辺野古移設が妥当と言う論拠は、②「在沖縄の全海兵隊を県外に移すことはできない」と言う国の判断に合理性があると言うことである。判決要旨故、どうして合理性があるという根拠は書いてない。裁判所は、はたして国の判断の合理性を検討したのか、疑問に思う。私は、「沖縄の全海兵隊を県外に移すことが出来ない」と言うことが間違いと思っているからである。

その理由は次のとおりである。
(1)米国海兵隊は、憲法違反の存在であり、日本国にあってはならない存在である
海兵隊は、日本領土を侵略した敵と海軍・空軍(自衛隊・米軍)が戦って制空権・制海権を掌握したの、敵中枢への機動力のある殴りこみ米国陸軍部隊である。日本国憲法下で武力行使可能なのは、安保理が行動を起こす以前の緊急段階での(国連憲章)日本領土を侵略した敵を撃退する場合だけである。敵中枢への殴りこみは、敵の撃退を超えていると判断する。故に武力行使を認められない戦力である。裁判所は、安保条約を認めるとしても、米海兵隊の日本国基地使用を憲法違反とすべきである。

(2)米国海兵隊を何らかの理屈で合憲の存在と考えても、以下の理由で海兵隊が沖縄にいる必要があると言う政府の判断は、間違っている。
(あ)海兵隊は、攻撃的部隊であって、専守防衛の日本の安保政策にはあわない。
(い)戦争は、すぐには起こらない。緊張が高まって起こるものである。海兵隊は、機動力に富む。北海道からでも米国からでも簡単に嘉手納や九州の基地にやってこれる。沖縄にいる必然性はまったくない。抑止力があるとしても、どこにいても抑止力になる。尚突発的に侵略が起こった場合、戦うのは海兵隊ではなく、陸海軍である。
(う)海兵隊が抑止力として必要と言うなら、敵中枢を襲う海兵隊は緊張を高めるもので、日本の安保政策に不都合な存在である。陸海軍だけで抑止力になっている。

(3)沖縄に海兵隊を置くと言うことは、沖縄の現在の不平等な重い負担の軽減に役立たず、[[平等の大原則に反]]する。また沖縄県民の意思を圧殺することであり、地方自治を大切にする趣旨に反する。米軍基地が必要悪なら、全国民平等で迷惑施設は受け入れるべきである。
とにかくまあ、政府べったりの判決ではある。原発安全神話を支持して、膨大な損害を国民に与えた、かつての裁判所の失敗の二の舞にならねばいいけど。



さて、私はこのところ、「自分は、日本のいい時代を生きた、幸運だった」と思うことしきりである。と言うのは、幕末・明治維新と言う激動の時代を書いた二つの小説を読んだからである。

一つは、乙川優三郎「面影」と言う短編である。幕末、安政の大獄を頂点とする水戸藩と幕閣特に井伊直弼の対立を描いたものである。しかし、それを直接描いたのではなく、佐倉藩の武士の視点から見ている。佐倉藩堀田正睦は、老中であり、開国論かつ徳川慶喜を将軍の跡継と考える人物である。故に将軍継嗣問題で、堀田は井伊直弼に老中を罷免さる。攘夷論の隣藩水戸とも対立する。その堀田の意を受け情報収集するなかで、主人公は、水戸の攘夷の壮士と接触する。その話し合いがこの短編の肝と思う。しかし、今は、その中身は書かない。いずれにしても、登場人物は、それぞれ困難な時代を過ごす。幕府も各藩も、大老も下級武士も、幕藩体制崩壊と言う大波の中で、大きく翻弄される

も一つの小説は、木内登「櫛挽道守(くしひきちもり)」である。木曽路は、薮原宿の「お六櫛」職人の話である。父親の名人技にひかれた長女登勢を中心に描く。櫛作りは男の仕事で、女は家事という時代であり、登勢の努力は困難を極める。父親の名人技にひかれ弟子になった男とのライバル関係もある。その物語自体面白いが、私は、時代背景にも興味をひかれる。時代は、幕末である。ペリー来航・開国・安政の大獄和宮降嫁・水戸天狗党と言う政治の激動が、木曽路にも及んでくる。このあたり島崎藤村「夜明け前」を思わせる。「夜明け前」の主人公は、狂死するが、登勢は、名人技に近づき、ライバルは夫となり、幸せをつかむ。しかしながら、この櫛挽一家にも、父の時代と違う新しい時代の波が押し寄せる。

翻って70年近くになる自分の人生を思う。幕末・明治維新の時代や15年戦争・敗戦の時代に比べて、なんて平穏な時代を生きてきたろうと思う。兵となり命の危険にさらされることもなく、努力すればそれなりの生活が出来、電化製品の登場と言う生活の激変は、概して豊かな生活をもたらした。飢えを経験することもない。良い時代であった。

幕末の動乱も敗戦も、それ以前の時代に、動乱・敗戦という激動の芽が出て、育っていたのであろう

わが平穏の70年にも、間違いなく次の時代の激動が芽吹いて育っていることであろう

沖縄独立か、中国との戦争か、北の核戦争を含む崩壊や動乱か、借金重圧による日本経済の崩壊か、人工知能の発達がもたらす機械による人間支配か、原発の過酷事故の再発生か、テロか、それは分からぬ。

しかし、どうやら私は、平穏な70年の夢の続きを見たまま人生を終われそうな気がしている。(「食い逃げするな、爺さん」と言う若者の声が聞こえる様な気もする)