友人の脳梗塞騒動 /小説の成立の舞台裏は、聞きたくないー「揺らぐ街」ーを読んで。

一昨日、友人から「このところ、ずっと頭がいたい」「ものが2重に見える」と電話があり、これは、脳に異常があるかもということで、隣町の脳外科へ連れて行った。というのは、友人は、年前脳梗塞になり、40日間入院した病歴がある。しかも、この脳梗塞の影響で、その後「てんかん」を二度おこし、意識を失ったのである。このため早期退職して、出身のわが町に戻ってきた。てんかん持ちなので、車は運転しない。

友人は、ほとんど一生独身で、今一人暮らしである。ほとんどというのは、10日程結婚して、すぐ離婚したのである。女性に(ほんとは、女性の親に)騙されたのである。その後結婚してない。故に独り身である。

さて、病院では、時間外にもかかわらず、CT・MRI・心電図を撮ってもらって脳に異常がないと判断された。しかし内科医が担当なので、「明日、脳外の専門医に見てもらうように」ということで、昨日も連れて行った。

結果は、脳に異常はないということで、二人とも、大いに安心した。

しかし、である。30分に病院に行って、診察が1130分ごろで、すべて終わったのは1230分ごろである。この時間、何とかならないものかねえ。専門医には、「具合が悪くなったら、救急車をよぶように」と言われたそうだ。わが町には脳外科がない。23キロ離れたこの病院に行くしかない。高血圧の私も、この病院にお世話になるほかない。わが町に脳外科があったらいいなあと思う。

私の場合、家族がおり、家族が救急車を手配するだろう。しかし、友人の場合、一人暮らしである。救急車を手配することができるのだろうか。近くに住むいとこも独身、隣組でも、結婚してない人が多くいる。子供が遠くにいる老人のみ世帯や、準老人世帯も多い。というか、40歳以下の家族と同居している家族が、14世帯のうち、わずか世帯である。今のところ、一人の世帯はないが、10年後にはどうなることか、目に見えている。これが日本の、どこにでも見られる風景なのだと思う。

一方、家族で生活していくことに、煩わしいことが多いのは当然である。あるいは憎しみ合い、本心では死を待たれるなんてことも、ごく普通にあることである。独り身も、家族持ちも、「とかくこの世は棲みにくい」。これは草枕の一節であったか。
まあ、独り身も家族持ちも、よい点の方を考えて生きていくしかないのだろう。独り身も家族持ちも、善人も悪人も、金持ちも貧乏人も、何をやった人も何をやらない人も、そのうち例のものが、がさっと丸ごとさらっていく。

さて病院での時間、読書をした。私の好きな熊谷達也「揺らぐ街」という小説である。
熊谷は、震災後、あの東日本大震災を小説にしている。特に「希望の海」など、仙河海市という気仙沼をモデルとした街の人々を描いている。

「揺らぐ街」は、二人の男女の小説家と一人の編集者の話が中心である。彼らの苦労は、大震災をどのように描くことができるか、書くべきかということにある。この二人の小説家は、明らかに熊谷の分身と思われる。つまり、この本は、熊谷の震災後の小説が、どのように作られたかの舞台裏を描いていることになる。また、熊谷の、大震災を描く場合の苦悩も赤裸々に語られている。

出版業界の事情も、小説家と編集者の関係もわかって面白い。熊谷の苦労も苦悩もわかって面白い。しかし、どうも熊谷の自己宣伝というか、言い訳というか、弁解というか、そんな印象も持った。舞台裏は、聞かなくていい。

小説家は、出来上がった小説で勝負すべきなのではないかと思った。

ひょっとしたら、熊谷も大震災のことを書くことに行き詰っているのかもしれない。それなら、一応自分の希望を言っておきたい。もっと、熊谷の、仙河海の人々の温かい話が聞きたい。あるいは、別方向に転進したいのかもしれない。それなら、それもよい。マタギ、特攻、学校、成長物語、動物もの、仙台もの、なんでも面白いものを提供してください。