氷雨の中の「生業訴訟」訴訟団のデモ/二つの「いとし子よ」

本日3月21日、福島市でのデモに参加してきました。国・東電の原発事故への責任と賠償を問う裁判の結審デモです。


デモの出発です。3梯団に分かれての行進でした。7・8百人の参加があったと思います。デモのコールは、「再稼働やめろ」「原発廃止」「福島県から原発ゼロへ」・・などでした。シールズのテンポあるコールに比べれば、勢いがなく、いまいち乗れませんでした。しかしまあ、年寄りが多いので、年寄り向きと考えましょう。

雨の中のデモです。

デモのおしまいは、福島地方裁判所人間の鎖で囲むことでした。

これは、一斉にプラカードを挙げている姿です。
この後は場所を変えて、宝田明の講演、模擬裁判、報告集会が行われました。宝田明の講演については、別にブログアップするつもりです。模擬裁判は、ほんとの裁判を比較的忠実に再現したものだそうです。原告訴訟団の事務局長は、本人が全く同じに再現しました。ほんとに迫力ある訴えでした。圧倒されました。特に子供二人が甲状腺検査で、異常を指摘されたことへの自分の後悔でした。彼は、二本松にずっといて、子供を遠くに避難させるかどうかで悩んだけれど、結局一緒にいたことへの後悔でした。彼の訴えが終ったとき、期せずして大きな拍手があったそうです。裁判長は、それを抑えられなくて、ほとんど拍手が終ったころに「気持ちはわかりますが、拍手はやめて下さい。静粛にお願いします」といったそうです。弁護士さんが、「気持ちはわかりますが」なんて裁判官は言わないそうです。この迫力!!


この二つが、今日の私のプラカードです。
1010日に判決が出るそうです。


話は変わりますが、一昨日、お墓参りの車の中で流れてきた曲に心ひかれました。未知の流れてくる曲に心惹かれたのは、AKB48フォーチュンクッキー」以来です。

あさみちゆきという人の「いとし子よ」という曲です。あさみちゆきという人も「いとし子よ」という歌も知りませんでした。

家に帰って、ネットで見るとユーチューブに出ています。あさみちゆきの義母の作詞で、作曲があさみちゆき本人だそうです。義母は、あさみちさんが子を産む前に亡くなったのだそうです。

優しい歌です。わが子を思う、あるいは孫を思う気持ちのあふれた歌です。「厳しい」という歌詞があるので、祖母が子を育てる母親を思って歌っているのかなと思いながら聞きました。

ネットで見ると、「いとし子よ」という歌は、ほかにも数曲あるようです。

また、ネットを見てて、永井隆博士の長詩「いとし子よ」を思い出しました。永井博士は、放射線研究で被曝し、長崎原爆で妻を失い、自分も被爆死した人でした。この詩をネット知人のcanngaelさんがブログで紹介していました。(2014年8月11日)

この詩は、1949年に作られた、力強く武装の平和を歌ったものです。終戦直後には、非武装の安全保障で生きていこうという考えが、普通に国民の間にあったのです。私も武装の抵抗方式・安全保障方式というものを考えてきました。
しかし、自衛隊の現状と現実の国民多数の考えを考えますと、安保法制廃棄→専守防衛武装中立(安保条約廃棄)→国連軍(世界的集団安全保障)・地域的集団安全保障・日本の非武装という筋書きを目指す方が、より安心を保障し、訴える力があると現在思っています。より安全かどうかは、分かりません。永井博士が言うように、非武装の方が安全かもしれません。

(以上が昨日のつぶやきです。以下が本日の文章です。眠くなり途中で寝てしまい、尻切れトンボになりました)

話がそれてしまいました。

昨日聞いた原告訴訟団事務局長(名前がどうしても思いだせないんです。よく聞く名前でした)の話にも、二つの「いとし子よ」にも共通するものがあるように感じました。それは、子や孫を思う気持ちです。

大変失礼ながら、私は、アベノミクス原発再稼働や安保法制や「東京オリンピック第一」に賛成する人には、子や孫を思う気持ちが弱いのでは、と思うことがあります。共通するのは、今がよければいい、自分が死んだあとは知らん、という気持ちがあるんじゃないかなと思うのです。詳しいことは言いませんが、借金や負の財産を残して構わないということです。子や孫を思う気持ちがないとは言いません、弱いと感じるんです。

子や孫が幸せであれと思う気持ちは、人類に普遍的なものでしょう。本能的な強烈なものでしょう。多分一番強烈なものでしょう。ある場合には、生命体の自己保存欲より、強烈な場合もあるでしょう。

>私が死んだら、腐らないうちに・・・・私をお食べ。食べておくれ、・・。お母さんがそういうのだから、かまわない。・・・、<(高橋和巳邪宗門」第一部P417)

国有地格安払下げ事件きちんとこう言いましょうね)に関連して、森友学園の教育が注目されました。教育勅語を暗唱させる教育がいいなんて、いう人もいます。安倍ご夫妻や元文科大臣や稲田大臣や鴻池さんなどは、賛成のようです。教育勅語にも普遍的な道徳があるというのが、その趣旨なようです。

しかし、教育勅語を見てください。読んでみてください。決して普遍的道徳を述べたものではありません。
親孝行・兄弟仲良く・夫婦仲よく、勉強しろ、なんてありますが、子や孫を思う人間の気持ちなんてありません。子をいつくしめとはありません。子や孫を思う気持ちって、普遍的なものなのではありませんか。

そうなんです。あるはずがありません

教育勅語とは、親や祖父母や先生に対して、「命も含めて、子や孫の生き方すべては、国家のためにささげるべきである。そういう人間が正しい人間で、そういう人間を作るのが、教育なのである」といっているのです。親や祖父母から子や孫を召し上げるのが教育勅語なのです。親孝行や兄弟仲良く、勉強しろ、ルールを守れなどすべての道徳は、国家のために奉仕する健全な人間になるために必要と読めます。全体への奉仕のため、○○せよという構造です。そして、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」という文章から格段にギアが入ったという感じです。

その道徳の正しさの証明は、「日本という国は、元々天皇が作ったもので、お前たちの先祖もずっと天皇の政治に奉仕してきた」ということです。それはもちろん大嘘です。縄文時代にも、弥生時代にも日本列島に人は棲み、天皇はいませんでした。卑弥呼天皇ではありません。天皇に徳があるならどうして、天皇家の中での醜い争いが延々とあったのでしょうか。江戸時代の農民は、天皇への奉仕なんて意識はありません。

つまりは、嘘で塗り固めたのが教育勅語です。この教育勅語を作ったのは、天皇ではありません。明治政府です。1890年、明治憲法制定の翌年に作られました。つまり明治憲法を支える国民道徳を示したものが、教育勅語です。明治政府を構成する者たちの、国民に対する生き方の命令なのです。自由民権運動を抑え込んで作られた明治憲法体制を支えるものです。人権確立を目指す自由民権運動の敗北の結果の人権抑制体制=明治憲法教育勅語体制なのです。

教育勅語は、大ウソつきの、大偽善者たちの、おのれの権力や現世での富を維持するための「生き方の押し付け」に私には思えます。普遍的な道徳であるわけがありません。

教育勅語肯定の思想は、第一次安倍政権の教育基本法改正や自民党憲法草案に表れた、様々な現憲法否定の思想につながるものです。それはもちろん人権軽視の思想です。