フィレンツエ

イタリア1日目ベネチア、2日目ボローニアとピサと紹介してきまして、3日目は、フィレンツエでした。

まず、フィレンツエの町を遠望できるミケランジェロ広場に行きました。


残念ながら、この日の朝は、美しいフィレンツエの町は、霧の中でした。上の写真の遠くに、この町の象徴ドゥオーモ(花の聖母大聖堂)が見えます。

この広場の象徴ミケランジェロダビデ像です。レプリカです。本物は、この町のアカデメイア美術館にあるそうです。この広場を降りてバスで市内に入りました。中心まではバスで行けません。アルノ川の岸辺でバスを降りて、歩きます。まず、初めは、ドゥオーモに行きました。

花の聖母大聖堂です。造るの140年にかかったそうです。ローマのサンピエトロ大聖堂、ロンドンのセントポール大聖堂に続き世界で番目に大きいのだそうです。

この大聖堂の右側の正面です。色大理石で作られているのだそうです。私たちは、この大聖堂には入りませんでした。その後歩いて、シニョリーナ広場に行きました。フィレンツエの町の政治的な中心地です。シニョリーナとは、政庁という意味だそうです。

シニョリーナ広場です。
広場の周りには、彫刻がいっぱいです。
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この写真の左端に見えるのが、ウフィッツイ美術館です。
現代彫刻もありました。

左に見える建物がヴェッキオ宮殿です。フィレンツエ共和国の政庁舎です。

フィレンツエ共和国の政庁舎です。現在も市政が行われているかどうかは、聞きそびれました。よく見てください。ダビデ像があります。これもレプリカです。でも、この場所にもともと
ダビデは立っていたのだそうです。

カエサルが紀元前59年に退役軍人のために造ったのが始まりで、ローマ人たちは、フローレンティア(花の女神)とこの町を呼んだそうです。それがフィレンツエの語源だそうです。その後ゲルマン諸族の支配を経て、13世紀には、自治都市として確立、14世紀から15世紀には、大富豪メディチ家の庇護のもと、ルネサンスの花が開いた都市です。このころメディチ家の巧妙な外交戦略と富の力で、イタリアは、割と平穏な時代を送ったとのことです。小さな「パックス=メディチ家」というとこでしょうか。

私たちは、イタリアルネサンスの象徴的作品が多数あるウフィツィ美術館に入りました。シニョリーナ広場の南東にあります。パリのルーブル美術館と同じような込み具合でした。大変な観光客でした入るのに1時間は待ちました。ここも、フラッシュをたかなければ、写真撮影がOKです。

カラバッジョバッカス」どうにも不気味ですねえ。

ティツイアーノ「ウルビーノのビーナス」

レオナルドダヴィンチ「受胎告知」

ボッティチェリ「ビーナスの誕生」
そのほか、名画をいっぱい見ました。私に絵画の知識と感性があれば、もっと感動したのでしょうけどね。いかんせん、それがありません。私の、小学校の図画工作の通信簿は、1か2です。勿論5段階評価です。考えてみれば、もったいないことです。

ウフィッツイ美術館の廊下から見たヴェッキオ橋です。アルノ川にかかるフィレンツエ最古の橋です。メディチ家の秘密の通路だったそうです。

ウフィッツイ美術館の廊下から見た、花の聖母大聖堂とジョットの鐘楼です。


有名な「ラオコーン」です。
これは、レプリカ。本物は、ローマのピオ・クレメンティーノ美術館にあります。古代ギリシャの彫刻の傑作です。

ルネサンスは、やはり再生ですね。ギリシャやローマ時代の身体表現がよみがえりました。中世の、「身体を軽んじ、霊を重んじる時代精神」への反逆でした。現代は、身体を重んじすぎてるでしょうか?そんな気もします。
ルネサンスの開花は、メディチ家の富をバックにするものでした。メディチ家の富の源泉は、金融だそうです。金融資本は、現代でも経済さらに政治も牛耳っているものです。今は、その行き詰まりが指摘されています。とか、分かったふりをしてますが、ほんとのところは、何もわかってません。