ひいきしたの誰だ/安保なかりせば/恐ろしい小説「私を離さないで」

相馬のスタンディングに参加してきました。

天気は良いのですが、風が冷たく寒く感じる日でした。5名の参加でした。

このプラカードは、3月8日に作ったもので、3月9日の原町スタンディングに使うためでした。ところが9日は、風雨が強く、参加しませんでした。というわけで今日が初登場のものです。このプラカードを作った後、事態は急展開しました。この9日の夜、佐川さんが辞任しました。今日12日、スタンディングに行く前、なんと安倍首相夫人の名前がもともとの文書にあり、それを削除していたというニュースが流れました。私はてっきり、あの、のり弁だと思ってたのですが、驚きです。これはもう、安倍退陣しかありませんね。お役人は、決まったことしかしません。当然政治の力が働いてますよ。

・・・・・さて、朝鮮半島でもあっと驚くことが起きました。以下は米朝会談のニュースが流れた日に書いたものです・・・・

核実験をやったり、ミサイルを飛ばしたりしてきた北朝鮮と空母群を朝鮮半島近くまで派遣し、武力行使をちらつかせた米国が、5月までに首脳会談を行うことで合意したそうだ。お互い、不倶戴天の敵と罵り合った首脳同士が話し合うことになった。会談が実現するかどうか、合意できるかどうかは、大きな分岐点である。まさに戦争か平和かの分岐点である。平和条約(相互不可侵=北の体制保障)と北の核放棄ができればいいなあ。もひとつ大事なことは、朝鮮半島統一に、米中ロが口出ししないことだ。元々、朝鮮戦争は、米ソがそれぞれの勢力を伸ばそうとしたことが誘因である。朝鮮半島統一のことは、韓国と北朝鮮に任せよ。俺はそう思う。

哀れなのは、安倍外交である。「対話のための対話は無意味」「最大限の圧力」「100%米国とともに」と言ってきた安倍外交である。トランプが対話路線になったら、日本も、北朝鮮との対話を進めるのだろうか。その場合制裁一点張りであった日本に、北朝鮮との手掛かりはあるのか。ありそうに見えない。

日本外交に自主性なんぞない。自主性どころか、外交そのものがないように見える。情けない。思えば、1970年代初頭もそうであった。米国とともに、中国を敵視していたのに、米国が中国と国交回復。日本の頭越しにやられたのである。

米国は日本を降伏させた。彼らは日本を、今もひれ伏す子分と思っている。米国は、自国の利益のためには、日本を切り捨てる。日中が軍事衝突したら、米国は、中国をとる可能性は高い。米国の尻馬に乗って中国と軍拡競争に励んだら、尻馬から振り落とされる。別な方向をめざねばならぬ。

私は夢想する。60年安保闘争時、70年安保闘争時、あるいは東西冷戦終了時、日本が、安保条約廃棄をしていた場合のことを。安保条約の規定で、日本政府が廃棄を通告すれば1年後に廃棄となる。

安保なかりせば、米軍基地はなく、故に沖縄への差別はなく、北の標的になることもない。北は、日本を仲介役と頼っただろう。拉致問題は、とっくに解決されていたはずだ

安保なかりせば、自衛隊は、米軍の補完部隊・前線部隊ではなく、日本国自衛隊であり、自衛隊員は、それこそ誇り高く、日本国を守る使命を遂行しただろう。

安保なかりせば、核禁条約の先頭に立って、朝鮮半島の非核化のみならず、世界の非核化の中心になっていただろう。さらに「平和的手段での平和構築」の中心であったろう。

良い場合を想像したが、逆に悪い場合も想像できる。

ソ連による侵略を受けたかもしれないし、高度成長できなかったかもしれない(米の経済的非協力、自主防衛=重武装の経済負担故)、核武装したかもしれないし、軍事国家化による人権抑圧がもっと進んでいたかもしれない。中国と軍事衝突がすでにあったかもしれないね。さすがに米国との軍事衝突はないだろうけど(この前負けたばかりなので)。まあ、どちらにしても、空想でしかない。

現実は、安保条約があり、安保法制という法制がある。それをもとに考えるほかない。いつも言っているが、やるべきことの第一は、安保法制は、危険かつ損なもので、違憲・無効なもの故、廃棄することだと思う。


いずれにしても、安保なかりせば、現在より、日本国の運命は、日本国民が決めたことは間違いないだろう。

・・・・この数日、ショックを受けた小説を読んだので、その感想を述べます尚ネタバレですので、これから読む人は、読まない方がいいと思います。

「私を離さないで」(カズオ・イシグロ)を読んで

(1)読んでいる途中で、恐怖を感じた。そうして何べんか、前に読んだところを読み返した。これは、私にとっては珍しいことだ。確認すると、初めから、介護人と「提供者」という言葉が出てきてた。

この小説もまた、過去の思い出を描く。主人公キャシーの語りという形で描く。
さいころの子供たちの心の動き、先生との関係、ヘールシャムと呼ばれる子供たちの成育場所の様子、実に細かに生き生きと描いてる。そんな平和な子供の世界に、異常な何かがあると思わせる。そして、読者に想像させる。この場所は、臓器提供のため、孤児を育成するところじゃないか、と。約100ページくらいで、その恐怖にとらわれた。読むのを途中でやめて、この感想を書いている。

(2)この子たちは、子供を産めない存在ということが明らかにされる。そして孤児ではなく、ある人間から作られたコピー人間ということも明らかにされる。しかし、感情も考え方も普通の人間である。・・・恐ろしい。子供が産めなくとも性欲はあり、自由なセックスをする。原本を「親」と呼ぶ。それにしても彼らの生活費はどうなっているのか?なぜ彼らは、学校や保護官(保育者・先生・親代わり)の言いなりなのか?ロボトミー手術か?・・・やがて、この子たちは、クローン人間と明かされ、その親が薬中、アル中、売春婦などの「くず」じゃないかという疑いが生まれる。「愛し合う二人には提供が猶予される」かも、という疑問も生まれる。(これもまた途中での感想)

(3)一昨日、残りを一気に読んだ。多くのことが明かされた。この子たちは、「介護人」か「提供」か、どちらかしか生きる道がないこと。へールシャムは、臓器提供用人間の、例外的な「人道的」育成所だということ。「提供の猶予」というのは、ないこと。4度目の提供で殺されること。明かにされないこともあった。親のこと、なぜ彼らが言いなりかということ、生活の手段。

(4)作者は、1990年代末の英国を舞台にしている。あのクローン羊を製造した英国である。クローン人間は、恐らく技術的に可能だが、現在世界中で法律で禁止されている。だがどこかで間違えば、この小説ワールドのような世界も出現するかもしれない。

人類は、ある人間を同じ人間と見なかった経験をいっぱい持っている。歴史上、他人種や民族・部族の虐殺はいっぱいあった。虐殺は、同じ人間とみてないからできる。ナチスは、ユダヤ人を同じ人間と見なかった。南京虐殺ゲルニカ、東京空襲・原爆投下、旧ユーゴの民族浄化カンボジア虐殺、粛清、同じ民族内部でもあるのじゃないか。信長の延暦寺焼き討ちはどうか、一向宗徒虐殺はどうか。・・・同じ人間とみてないからできることだと思う。いや、人間とは、自分に敵対するものを殺すは当たり前の存在か?自分のある目的のため、殺すのも当たり前なら、臓器移植用人間の製造もありうるのではないか。


遺伝子操作で作られた人間、「くず」の親から作られた、抵抗能力を奪われ、製造された人間を、同じ人間と見ない可能性だってあるのではないか。可能性は、0ではないのではないか。優生保護法はどうか。生殖能力を奪ったではないか。


無人攻撃機を操作する兵士、ロボット兵士を操作する兵士は、攻撃対象を人間として見ているか。特攻作戦を立案・実施した軍人は、特攻隊員を人間として見ていたか、ブラック企業の経営者は、会社員を同じ人間とみているか。ヘイトスピーチをするものは、その対象を人間として見ているか。テロリストは、テロ対象を人間として見ているか。いじめをしている人はその対象を同じ人間とみているか。この小説ワールドの、ある何かは、現実の社会にあるのじゃないか。私は、あなたは、この小説ワールドとある意味、同じ世界に生きてないか。

(5)この小説には、一般人と臓器提供用人間の接触は、ほとんど描かれていない。へールシャムの保護官との関係だけである。唯一の例外は、マダムと呼ばれる人間である。マダムは、少女時代の主人公が、枕を抱いて躍っている姿を見て泣く。「この子は、100%子供を持てない。この子は100%臓器提供者として殺される。それなのに同じ人間である。同じ人間なのである。」と、マダムは思っているのだろう。小説の最後で、この場面について、マダムは、別なことを言う。ほんとのところはわからない。しかし、描かれる臓器提供用人間は、全編、われらと同じ人間である。

(6)この子たちは、生殖能力を奪われているのみならず、親を持っていない。普通、人間は親に育てられる。この子たちは、親には育てられない。へールシャムやその他の施設、国営の「ホーム」で育てられる。飼育場である。親から引き離され、食用に供される牛や豚や鶏と同じである。なぜ反抗しないのか。どこかに蒸発しないのか。

「使命」という言葉が出てくる。臓器を提供して死んだものを、彼らは「使命を果した」と呼ぶ。発生のどこかの段階で、使命をインプットされたのか?多分そうなんだろう。そんなこと、ありえるか。現在90歳の義父は、特攻で死ぬことをどう思ってたかと聞くと「当たり前、当然と思ってた」という。特攻隊員は、教育でこうなった。ゆえに、彼らを「臓器提供を使命」と考えるように教育することは、可能だ。遺伝子操作で、発生段階でインプットも可能かもしれない。

(7)この小説は、友情と愛の成長と成就の小説でもある。主人公キャシーと友人ルースと友人トミーの友情と愛の物語でもある。
第一部は、彼ら3人のへールシャムでの子供時代と思春期を描く。キャシーとルースの女の子同士の心の動きは、精密に描写される。トミーに対するキャシーの心の動きも面白い。やがてトミーとルースはカップルとなる。
第二部は、コテージが舞台で、他の学校(飼育場)出身の人と一緒に、介護者・提供者となる準備をする。三人の恋愛と友情は、繊細に微妙に揺れ動く。最後は、互いに心を残しながらも、友情も恋愛も崩壊して、別れ別れになる。
第三部は、社会人?となった3人は、(多分)7年後、再会する。キャシーは、一度目の提供を終えたルースと再会し、彼女の介護人となる。二人は、少しずつかつての友情を取り戻す。しかし、トミーとのことには、なおわだかまりを持つ。
それを解消できず、キャシーがルースの介護人をやめようと思った時、愛の奇跡が起きる。二人は、話題になっている難破船を見るため、トミーと会う。この日、ルースは、トミーとキャシーの仲を幼いころから裂いていたこと、それを許してほしい、そして、トミーの介護人になってほしいという。さらに彼女は、「真実の愛を持つ二人は、提供を猶予」されるので、その手掛かりとなるマダムの住所を教える。キャシーがそれを受け入れたのは、ルースが2回目の提供で、使命を果たし終えた時=死亡=殺害された時であった。

ルースの、二人への愛は、完成したのである

1年後キャシーは、トミーの介護人となる。二人は、校長やマダムに会い、へールシャムの真実を知る。そしてトミーは、4度目の提供をする前、キャシーを介護人から外す決意をする。4度目は、死ぬ時だ。キャシーもまたそれを受け入れる。二人はごく小さいときから愛しあってきたからだ。二人の愛もまた成就する

(8)この小説は、主人公がすべてを失う物語でもある。いや最初から失なわれており、その後生きて獲得したすべてを失う物語である。

(9)この子たちには、親がなく子もない。この子たちが、親を求める気持ちが実に切ない。この子たちは使命に縛られ、自由はない。しかし、人間の心を持つ。そんな彼らの親であり、故郷が、へールシャムなのだろう。

(10)再読(拾い読み)後のメモ

この小説は、主人公キャシーのトミーとの愛を描いた物語とも思った。疑問が残った興味ある事・・・マダムが少女のキャシーの躍る姿をみて泣いたときのほんとの気持ち。なぜトミーは
、最期にキャシーの介護を拒否したか、キャシーはなぜそれを受け入れたか。トミーの言う「あちら」「こちら」とは何か?「私を離さないで」とはどういう意味か?

(11)「ネバーレッドミーゴー」の歌を聞いて

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ほんとにこの歌あるんだ。歌手もいるんだ。英語の歌なので意味はよく分からないが熱烈な愛の歌という感じはする。歌には数種類あってその中に外国映画の宣伝版があった。小説では、
泣き虫の私もまったく涙が出なかったが、この映画を見たら涙が出そうだ。この映画の最後のシーンも見た。

キャシーもまた使命を果たすことを決意する。成就した3人の友情と愛の思い出も、へールシャムの思い出も、キャシーの死とともに消える。彼らは、彼ら以外の誰にも彼らの知った真実、愛、思い出を残さない。すべて消える。

いや、消えない。読者に強烈な思いを残す。そうだ。私は彼らを離さない。ネバーレッドユーゴー(こんな英語あるかな、怪しいな)。君たちを忘れない。


(12)訳者の読者への問いかけへの答え
体が弱くなった校長先生は、キャシーやトミーの提供を受けるか、という問い。
今のところの私の答えは、校長は受ける。マダムは、・・・わからない。多分受けない。

(13)何回か、ユーチューブ予告の映画の最後のシーンを見て思ったこと(4月1日記す)
原作でも、映画でも、最後のシーンはこうだ。主人公キャシーが、ゴミ切れが風に吹かれるのを見ているシーンである。なぜ吹き飛ばされたゴミ切れがとどまって、風に吹かれているシーンなのか。英文の字幕では、私たちは十分な時間を持ったという文章があるようだ。愛が完成したからか?意味は分からないが、どうしても心惹かれるシーンである。