神様を格付け、素朴さと清らかさと人間臭さと 感謝の心は誰に

米朝会談の評価にはいろいろありますが、厳しい評価が多いように思います。すべてはこれからの米朝協議にかかると思います。交渉がうまく行かなくて元の緊張状態に戻っても、最高指導者がひざ突き合わせて話した経験が、最悪の状態を阻止すると(希望も含めて)思います。知らないことが疑心暗鬼を生み恐怖を生み、それが戦争がつながと思いますので。

それにしても日本外交は情けないですね。自国の希望を米国大統領にお願いするしかなく、他国の行動に左右されるばかりなんですから。安保条約を解消していれば、NPTの立場だけでなく、被爆国として核禁条約の立場からも発言できたでしょうに。どこの国の核の核も悪というたちばであれば、日本は北朝鮮から頼られます。そうなれば、日本の要求をのませることも今よりははるかに容易になるでしょう。

現状の、安保条約下の米国従属の日本、特にその性格が強い安倍政権のもとでは、ほかの国の動きにできるだけうまく対処するしかないでしょう。狭い選択肢しかありませんが、やむをえません。

さて、伊勢神宮への旅行のことですが、いろいろな思いがきざして、なかなかまとめることができませんでした。まとまりが悪いのですが、時がたつと思いが消えてしまうので、この段階で伊勢神宮参拝で思ったことを記録しておきます。

・・・・・

もう半世紀前になります。大学の教養部時代、国文学で「古事記」の授業をとって、日本神話って面白いなあと思いました。その神話の中心の天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮にも行ってみたいと思っていました。

さらに、アジア・太平洋戦争の惨禍をもたらした思想の一部分が、日本神話に基づくことを知り、伊勢神宮を実際に見てみたいと思うようになりました。そうは言っても、物見遊山的な気持ちの方がおおきかったのは、100%間違いありません。

そんな気持ちですから、お伊勢参りとはいっても、わたしの場合、信仰心からではありません。

伊勢神宮とは、伊勢市を中心にした100以上の神社の総称です。中心になるのは二つでして、天照大御神を祀る内宮(ないくう)と豊受御大神(とようけおおみかみ)を祀る外宮(げくう)です。この二つの神社群は数キロ離れています。神話では、豊受大御神は、天照大御神の食事をつかさどる神様です。(るるぶ「お伊勢参り」からの情報)

日本の神社の最高峰(と言われている) 内宮へ通じる宇治橋です。この橋は俗世界と神の世界を分けるといわれているものです。

正宮(しょうぐう、内宮の中心です。天照大御神が祀られています)の正面入り口です。中の方はほとんど見ることができません。畏れ多い?ひ・み・つ?

一番よく見えるところ(ガイドさんの話)から見た正宮です。ほとんど見えませんね。見えないことで、神秘的=価値高いと思う人と「うさん臭い」と思う人がいると思います。私は後者です。

(1)人間が神様を格付け?、変じゃない

伊勢神宮に行って私が一番気になったのは、多くの神社の序列付け、格付けです

内宮と外宮は、正宮と言って(正確には、「その中に正宮があって」、だと思います)別格でして、その下に別宮(べつみや、内宮・外宮合わせて14社)があります。さらにその下に摂社・末社・所管社があります。(るるぶ情報より)

内宮と外宮でも差があります。内宮の正宮の鰹木(かつおぎ、屋根の棟の上に置く丸太状のもの)は10本、外宮の正宮は9本。屋根の飾りの千木の風穴が、内宮の正宮は二つ半、外宮の正宮は二つ等、様々な差があります。

そういえば、名古屋市熱田神宮の本宮(ほんぐう、伊勢神宮の正宮に当たる)の鰹木は、本でした。(ネットの熱田神宮の情報)

遠慮しているのですかね。忖度かな(笑)

20年に一度の遷宮(社の建て替え)にも差があります。トップは勿論内宮、次に外宮、次に別宮、それより下の方は、建て替えではなく補修修繕なのだそうです(ガイドさんの話)

名古屋市熱田神宮です。草薙の剣を祀っているそうで、内宮・外宮についで高い格式があるのだそうです。伊勢神宮の内宮に比べて開放的です。見せるか見せないかでも、神社の格差に応じて差があると感じました。内宮・外宮どちらも参拝する順序もおおむね決まっています。(るるぶ情報)ただし「神宮会館」のガイドは歩く便利のためか、参拝順序は決まりと全然違ってました。

しかしですね、人間が、神様を格付けするなんて不遜ですよね。格付けする人間をうさん臭いと、私は思います。

どうして人間が、神を序列付け、格付けするのでしょうか。それは、ある時代の誰かが何かの目的で、序列付け、格付けを行ったからだと思います。

次のことは現地の案内人の話で知ったことです。内宮の別宮・風日祈宮(かざひのみのみや)と外宮の別宮・風宮(かぜのみや)は、どちらも風の神を祀る社ですが、元寇の際の神風を吹かせたお手柄で、別宮に昇した、とのことです。人間が神様を昇格させているのです。どうも違和感を覚えます。人間が神様を格付けしているんです

ここからはっきりわかります。ある時代のある人間たちの意思が、神様たちを格付け=序列化しているということが。



ある人間たちが、神様たちを格付け、序列化するって、変だと思いませんか。うさん臭いですよね。尤も神社と神様は違うといえるかもしれませんけど、神社はそれぞれ何かの神様を祀っているので、ある人間たちによる神様の価値づけ=序列化・差別化と本質的に同じでしょう。


詳しくは知りませんが、ずっと昔から神社の格式と序列付けはあったようです。それを強力に再編したのが明治政府でした。

明治政府は、天照大御神を祀る伊勢神宮の内宮を神社のトップとしました。さすがに人間が、ある神様をトップと認めるのは、変と思ったのでしょうか。伊勢神宮は別格という扱いのようです。なぜ伊勢神宮は別格か?あるいはトップか?

それは、神話から来ています。「古事記」の記述の大筋は、(エピソード的な面白い話がいっぱいなんですが、)数々の神の子孫の天照大御神の孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日本に降りてきて(天孫降臨)、その子孫が天皇になったといっています。

明治政府はこれを、国民を支配する装置の一つとしました。国家統治の一手段です。

それはこういうことです。「この世のすべてを作られた神様は偉い。その神様の子孫が天皇なので、天皇が日本を支配するのは当然だ。国民は天皇を尊敬し助けなければならない」という考えを、正しい考えとし、そう国民に考えるよう強制したのです。

この考えを明治政府は、憲法という国内最強のルールにしました。大日本帝国憲法第一条「大日本帝国は、万世一系天皇、これを統治す
この考えを明治政府は、教育の基本としました。教育勅語「・・・爾臣民、父母に孝に・・・一旦緩急あれば義勇公に奉じ、もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし」

明治時代の政治権力が国民統治のため、古代に成立した神話を使って、天皇による支配を正当化したわけです

ある時代のある人々が、自分の都合のため作った、神様の序列化なんて、押し付けられてはたまりません

ましてや、天皇が日本列島上の万物を作った神様の子孫というのは、嘘です。嘘を押し付けられてはたまりません。それにしても、嘘で固められた考えを国家体制の基礎に据えているのですから、戦前の日本、うさん臭いですね。

その伝統から行くと、嘘つきの総理大臣がいても平気なんですね。(苦笑)

騙されまいぞ、慣らされまいぞ

そうか、自民党憲法改正草案(平成24年作成)の憲法前文冒頭「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち・・・」は、嘘をほんとに思え、ということなのだな。(笑)この草案の憲法前文の結語「日本国民は、よき伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここにこの憲法を制定する」は、「日本国民は、よき伝統=嘘に目をつぶれ」と言いたいのだな。(笑)これはまあ冗談です。しかし、長い歴史とは何か、固有の文化とは何か、よき伝統とは何か、これを明確にしなければいけません。私は、こんな不確かなことを、もっとも基本になる憲法前文に入れる自民党中央幹部の脳みそを疑います。うさん臭いにおいがふんぷんしてます。

自民党憲法草案です。現憲法と対照になっています。私は、多くの人に憲法前文だけでも読んでほしいと思います。詳しいことはわからなくとも、文章の勢いが違います。読んだ印象がひどく違います。

もう、前文の冒頭第一文の主語から決定的に違います。述語も違います

現行憲法「日本国民は、・・・・この憲法を確定する」(俺たち国民が日本国の統治原則をこう決めた。)→自民党はこれが大嫌いなのです。
自民党草案「日本国は、・・・統治される」(日本国は、これこれの原則で統治される)→これって、大日本帝国憲法と同じ言い方ですよね。・・・誰がそう決めたんですか。昔からあったのですか。いつから日本国ってあったと考えるのですか。


草案の最後に、この草案に関係した自民党の諸先生方の名前が列挙されています。
最高顧問のところに、麻生太郎 安倍晋三 福田康夫 森喜朗とあります。その他有名人がいっぱいです。中谷さん、石破さん、川口さん、中曽根弘文さん、磯崎さん、ほぼオールスターですね。

私は脳みそを疑うと言いましたが、ほんとは賢いのだと思います。うまいこと、これからも、国民をだまそうと考えているのでしょう。

政治権力を持たない現憲法下の天皇が、自分の祖先を祀ると考える伊勢神宮を参拝するのは問題ないですが、政治権力を持つ総理大臣以下の政治家が、公人として伊勢神宮をお参りするのはやってはいけないことだと思います。(政教分離の原則違反)

思えば、1946年(昭和21年)1月1日の天皇の「人間宣言」は、極めて重要でした。人間宣言は、「天皇は、すべてを造った神様の子孫」ということを否定しています。国家による神の格付けは、少なくとも動機の面で、されにくくなったと思います。

(2)素朴さと清らかさと人間臭さと

(1)は、神様の序列付けには、時代時代の権力による、支配のための歴史のねつ造があるという感想でした。それ以外の感想をのべます。神社信仰は、素朴だなあということでした。内宮・外宮の中のもろもろの社は、木造の素朴な造りでした。熱田神宮でも同じでした。奈良・京都の大寺院の大伽藍に比べると、ほんとに質朴です。見る人間を威圧はしません。

外宮の有力な別宮です。名前は忘れました。正宮以外の殆どがこんな感じです。質朴です。

また遷宮という行為にも素朴さを感じました。神様も20年住んだら住むところが壊れたり汚れたりするので建て替えて、新しいきれいな住まいに住んでもらおうということでしょう。神様を人間的な感覚でとらえているのです。そういえば、「古事記」に描写された神々は、よくも悪しくも極めて人間的な存在でした。

イタリアやフランスやドイツで見た建物は、堅牢で何百年も持たせることを主眼としているように思いました。それに比べて、この遷宮というのは、興味深いですね。

ただし、遷宮伊勢神宮だけのようで、普通の神社はやりません。お金がないからです。伊勢神宮はなぜお金があるか、日本全国の神社から「上納金」(お札を売りつける)があるのだそうです。(これは、ある神主さんに聞きました。福島県内だけで1億以上だそうです。)変ですねえ。伊勢神宮は、嘘の上に鎮座して、金を出せとえばっているという感じです


さて、
伊勢神宮熱田神宮も昨年見た明治神宮も森の中でした。私の町の神社も規模の大小にかかわらず、すべて森の中です。森の中に鎮座する社は、どこか清らかさも感じます。以下は私の想像です。

旧石器時代縄文時代は勿論、稲作の始まった弥生時代でも、人々は、衣料・食糧・住居の材料を森に委ねていました。ですから森に恩恵を感じたことでしょう。一方、森は人の命も奪います。そこから原始・古代・中世・近世の人々は、森に神を感じたと想像します。

昨年行った明治神宮の参道です。参道は広いですが両側に深い森を感じます。

現代人の私も、一人で森の中にいると、森を渡る風の音・匂いや木のそよぎ、ささやき、山の音に何か人間を超える、ある何かを感じることがあります。そんな感覚は、川にも海にも山にも動物にも木にも石にも感じることが可能です。また偉い祖先を神にするというのも、ある人間にとってはありでしょう。これが日本列島の住民のもともとの宗教的感覚でしょう。それは日本に限らず多くの人類の基盤的な宗教感覚でしょう。

そういう個人の、基盤的というか生理的というか、ある宗教感覚を、政治に利用してはいけません。ある価値観を強制してはいけません。それこそ個人の感じ方、考え方は千差万別なわけですから。

(3)感謝の心は誰に
内宮前の「神宮会館」というところに泊まりました。安いということと早朝参拝のガイドが無料で享受できるということで選びました。食事もおいしかったし、ガイドは、信心を表に出すことはなく、説明は客観的でした。伊勢神宮を崇拝する団体の経営らしいのですが(るるぶには書いてありませんでした。現地に行ってみて、初めこりゃやばいかなと思いました)、特に宣伝らしいものはありませんでした。その団体に入会するためのパンフレットが廊下に置いてあるくらいかな。

しかし気になったのは、割りばしの包み紙です。その裏に、食事作法とあって、
1.食前 静座一拝一拍手
たなつもの百の木草も天照す日の大神の恵みえてこそ(いただきます)
1.食後 端座一拝一拍手
朝宵に物食ふごとに豊受の神の恵みを思へ世の人(ごちそうさま)
詠人 本居宣長
とあります。

「ものを食べることができるのは、天照大御神や豊受の神のおかげであることを忘れずに、感謝して食べよ」という意味でしょう。

私たちが食べる肉も魚も野菜も、他の生命です。他の生命をいただいて人間は生きています。その意味で他の生命に感謝するのは当然のことです。(普段そんなことを考えませんけど)他の生命体は、結局は太陽のエネルギーのおかげで生命を作りました。ですから太陽をありがとうと思うのは、「あり」だと思います。しかし太陽を天照大神と考えたのは、ある人たち(大和朝廷の権力に連なる人)です。私は、他の生命に感謝しますが、また太陽ってすごいなとも思いますが、天照大御神に感謝することはありません。

また感謝するなら、人に感謝すべきでしょう。食糧を生産した人、それを運搬した人、調理した人、出してくれた人に、私は感謝します。天照大御神豊受大御神に、ではありません

同宿の人たちも感謝とか信心という感じからは程遠かったですね。ほとんどがお酒を飲んで騒いでいました。尤も古事記の神々も、「神性」からほど遠い神々なので、人間が酒飲んで騒ぐのは当然です。それでいい。

私は食事時、酒を飲みませんでした。信心からです。あはは。勿論嘘です。安く上げるため、相馬で買った100円のパック清酒を持参し、部屋で飲んだのです。




私が最も感銘を受け、最も影響を受けた高橋和巳の小説邪宗門に、こんな場面があります。昭和初期、天皇中心の国家道徳に反する教えを行ったということで、弾圧されていた「ひのもと救霊会」(作者の作った空想の宗教団体です)の信徒は、世間(の多数)からも警察からも厳しい扱いを受けます。

そんな状況の中で、主人公千葉潔(中学一年)たちは、例年通り、冬の薪を集めるため国有林の下枝とりに出かけます。リヤカーを引いて出かけます。国有林の入り口で立っていた警察官が、彼らがひのもと救霊会の一行と知って、声をかけてきます。
警官「国有林の雑木が、冬ごもりの前に刈り出されるのは、この土地のしきたりとはいえ、それをお許しくださるのはどなたのおかげだと思っとるか」
信徒「はい」
警官「言ってみろ」
信徒「はい」
そこに救霊会の教主(代表行徳仁二郎=「不敬罪治安維持法違反容疑」で入獄中)の長女行徳阿礼(16歳)が馬に乗ってやってくる。
阿礼「下ばえ刈りの家族の数は、救霊会の方から一括して届けてあるでしょう。警察に文句を言われる筋合いはありません」
警官「国有林の下ばえを刈るのを許してくださるのは、どなたのおかげかと聞いとるんだ」
阿礼「山に木の茂るのは、おひさまのおかげです。それに下ばえの雑木を刈らねば、かえって林の成長が遅れるでしょ」
警官「女子供が何を生意気をいうか」(「邪宗門」第一部第三章薪造り



有名な二見が浦の夫婦岩です。元々は、ここが天照大御神を祀る場所だったようです。夏至にはこの岩の間から太陽が昇り、冬至には内宮の入り口の鳥居のところに沈むのだそうです。(タクシーの運転手の話、ガイドの話)
元々の天照大御神への信仰は、初日の出を拝む風習と同様、素朴な太陽信仰だと思います。それを現世の天皇と結び付け、嘘で固めた歴史を作って、支配にそれを利用したのが、大和政権や明治政権です。



小説の警官は、「天皇陛下のおかげです」、と言わせたいのです。この警官も、普通の人にはこんなことはきかないでしょう。この宗教団体が、国家に服従しないことを知って、警官は、圧力をかけてきたのです。権力に連なるものたちは、権力を利用します

国家権力と宗教・道徳が結びつくのは、極めて大きな間違いです。権力が、個人や個人が作った団体の考えに介入することは、絶対いけません。

自民党憲法改正草案第20条(信教の自由)に現行憲法にない条文が追加されています。国や公共団体による宗教活動の禁止の項目の中に、次の文章を付け加えました。
・・・ただし社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超えないものについてはこの限りでない」

こんな、不明確な規定では、権力に宗教が忍び込む可能性があります。例えば神社を信じることは習俗だと主張する可能性も生じます。伊勢神宮靖国神社を信仰するのは習俗だ、なんてなりかねません。自民党は、かつての国家神道にしたいのだと、私は想像します。それは国民を支配しやすいですので。この草案を作った自民党中央幹部を、私は否定します。

自民党の政治でよいと思う人も、自民党の中央幹部の本来的考えが、個人を圧殺するものということは知ってもらいたいと思います。決して自民党を国政上で強くしてはいけないと、私は思います。

嘘の上に平気で胡坐をかいて統治することを認める政党なのですから。安倍さんと自民党のことを言っています。


小説「邪宗門」の主人公千葉潔は、この数か月後、教団最高顧問の指示に従い、伊勢神宮参拝の昭和天皇に直訴します。「ひのもと救霊会」最高顧問・儒学者加地基博の死をかけた「諌暁」(かんぎょう)の手紙をもって、あの五十鈴川を渡ります。それが、国家権力による「救霊会の完全なる圧殺」につながります。(「邪宗門」第一部第二八章 壊滅)この章は、壮絶です。嘘に基づく権力が、自由・平等・人権・自治を圧殺する場面でした。

勿論、「ひのもと救霊会」は高橋和巳が作った嘘です。しかしこの嘘は、私の心を揺さぶります。明治権力が作った嘘(国体)は、私の心を揺さぶりません。

宇治橋から見た五十鈴川です。美しい流れでした。


また、「邪宗門」を読みたくなりました。振り返ってみますと、大学4年の冬、2日2晩ぶっ続けに読んだこの本は、私の考え方に大きな影響を与えたと思います。