わが頭を疑う。どうして普通に「君を好きだ」と言わないんだろう

今日名取(宮城県)で「万引き家族」を見てきました。

分からないことが多かったです。

樹木希林のばあさんと若い美人(風俗で働いている人)との関係がわかりませんでした。妻にそういうと、「ばあさんの亡夫の後妻の孫」とか。どうもそういってたようです。私は、見逃した。あーあ、年は取りたくないものだ。このぼけ頭。なぜ一緒に住んでいるのかと聞くと、「ばあちゃんが優しかったからじゃないか、そんなことを言ってたよ」と、妻。あーあ、分からなかった。

あの男の子は、どうして逃げなかったのかな。小さいころに誘拐されたからなのかな。でもほんとの父母じゃないと知っているんだから、どうして逃げなかったのかな。やはり偽の家族の方が生きやすかったのかな。あの男の子は、あの後実家族を探すだろうか。

父母とあの男の子は、どうしてばあさんの家に住むことになったのか、これについては何も言ってないよね。見る人に解釈を任せているのでしょう?多分。あの男は、どうして一生懸命働かないのかな。万引きしなくともいいように。まあ、そういう人もいるとは思いますが。

あの小さい女の子は、可哀そうです。実家族より疑似家族の方が生きやすい、ということはあると思います。血のつながりばかりが、つながりじゃないというのは、当然のことです。映画の最後のシーンがこの子の未来の不幸を予感させます。


疑似お母さんが、首切りを受け入れるシーンはすごいですね。愛があふれています。そう思わせる演技はすごい。彼女が、ばあさんを家の土地に埋めたことを「捨てたんじゃない。誰かが捨てたのを拾ったんだ」という言葉は、「うーん、そうかも」でした。子供を誘拐し、その子を愛するということで、あの「八日目の蝉」を思い出しました。それにしては、現実世界で母親がわが子を愛さないことがどうして多いんだろう。


現代日本の家族のそれこそ様々な問題を、疑似家族を通じて表現している映画と感じました。それと非正規雇用の不安定さ。

分からないことが多かったので、テレビで放映したときも一度見てみようと思います。






近頃読んだ小説「君の膵臓を食べたい」(住野よる)でも、わが頭を疑いました。

私は、若い男女の言葉のやり取りについていけませんでした。年のせいですね。いや、もともと男女の心情の機微は、分からない鈍い男だったのも間違いありません。

この小説の語り手の「僕」(主人公)は、男女に限らず、他の人間の心の動きに関心を持たない主義で、他のクラスメートからも存在を軽視されています。彼は、ヒロイン桜良(さくら)に自己完結型と称されます。


その自己完結型の「僕」が、桜良との付き合いで、他人を自分の中に取り込む人間に変わるという話だと、この小説を思いました。女子の愛で、男子が変身するというありふれた話と思いました。
(こりゃ、ファンに怒られるな。もうろくじじいと)

作者が描く桜良は、魅力的です。桜良は、余命1年の高2の女子、しかも進んだ医学のおかげで(此処に少々無理があるとは思いますが)健康体と同じ行動力を持つ活発な女子です。

余命をかけた若い女子の思いは、根暗な男子を変える圧倒的エネルギーがあるでしょう。

「僕」にj積極的に働きかけて、「僕」を変えてしまいます。そういうこともありでしょうね。私には経験がありませんが。

尚、桜良が根暗な「僕」をどうして好きになったのかは、いまいち腑に落ちませんでした。
まあ、だれがどんな人を好きになるかは、説明しなくとも、いいでしょう。好き嫌いは、説明の埒外でしょう。説明があったのに私が見逃したのかもしれません。

大きな疑問が残りました。どうして「君を好きだ」の代わりに「君の膵臓を食べたい」というのか、私にはわかりませんでした。この小説の、一番いい所がわからなかったのではだめですね。大ベストセラーになったそうですので、多くの人にはわかるのでしょう。

私、これについては、分からなくともいいです。私、青年時代以来ずっと70近くの今まで「自己完結型」ですので。