「沖縄を返せ」の歌に思う

28日29日山形県上山で開催の、大学の寮の同窓会に参加してきました。

一番思ったことは、皆年取ったなあということでした。それは、参加人数の減少とキャンセルの激増に端的に現れました。一番若い人が昭和50年大学入学というのですから、還暦すぎです。古稀近い私がかなり若い方ですからねえ。

次に思ったことは、年取るということは融通性がなくなるということかな、ということでした。
私は宴会の司会役でして、皆さんに前もってやることを明示していたのですが、それができない学年あるいはチームが多かったでした。歌を一つ歌うことも(歌詞集も作っておいたのですが)なかなか決められないチームもありました。延々と自分のことを話す人も案外多かったです。
(テーマを一つに絞ってということで、テーマ例を示しておいたんですが、そんなチームはありませんでした)なるほど、年をとりました。尤もだいぶ飲んでからですからねえ。
まあ、私の作戦の失敗です


今日は30日沖縄県知事選挙の投開票日です。
私は、辺野古新基地反対の玉城候補が勝ってほしいと思いますが、前の拙ブログで(「芭蕉布」の歌に沖縄を思う)で言いましたように、どちらが勝っても「そうですか、そうでしょうね」という気持ちになります。

辺野古反対派が勝てば、「沖縄の基地負担は不平等の極みですからね。当然県外か国外かに作るべきですよね」「沖縄の自然が壊されますものね」「基地の危険性があまり減りませんものね」「敵基地攻撃の米海兵隊なんて不要ですよね」「沖縄の意思を尊重すべきですよね」とか思います。

辺野古賛成派が勝てば、「沖縄が反対しても国は基地を作りますものね」「目前で作り始めているものを今更撤回というのはきついですものね」「基地を認めてお金をもらうというのもやむを得ないですものね。一番県民所得が低いんですからね」「普天間は町中だし、辺野古は外れているからいくらかは危険性が減少しますものね」「もう基地での対立はうんざり、別なこと考えようというのも当然でしょう」とか思います。

まじめに考える人にとっては、どちらにしてもつらい選択であったと思います。基地問題は国全体の問題で、辺野古新基地建設を強行している政府を結果的に作っている国民の一人としては、沖縄県民の選択をどうのこうのいうことは出来ないように感じます。


さて、私が大学生だったころ集会で良く歌った歌に「沖縄を返せ」という歌がありました。1969年から1972年が私の大学時代ですので沖縄返還運動が燃え上がった時代でした。
私は、米国に対して「沖縄を日本に返せ」というつもりで歌ってました。いろいろ意見がありましたが、政府の言うように「核抜き本土並み」返還でいいじゃないかと単純に考えてました。不勉強でした。核抜きについては、そのまま信じてました。現在では、佐藤栄作首相と米国の密約(有事の際沖縄への核持ち込み等)があったとわかってますが、当時は当然沖縄にも核なしと思ってました。見事に騙されていたわけです。本土並みとは、「日本本土の各自治体と同じ待遇」という意味で、それでいいじゃないかと思ってました。各自治体と同じ待遇とは、基地負担についても同じだろうとぼんやり思ってました。しかし違ってたのですね。この点でも騙されました。いやほんとは無関心すぎました就職後、米兵による少女暴行事件まで沖縄のことは頭からすっぽり抜けていました。

実際は、沖縄の米軍基地負担が圧倒的に重い状況は変わらぬどころか、ひどくなってしまっていたのです(復帰後の方が沖縄の負担が大きくなった)。

固き土を破りて民族の怒りに燃える島沖縄よ。・・・・われらのものだ沖縄は、沖縄を返せ。沖縄を返せ」(沖縄を返せ)
という歌を、私は今歌えるでしょうか。・・・もはや歌えません。

沖縄の人が今この歌を歌う場合、基地も本土並みに縮小せよという意味で歌うのかもしれません。それは意味があるでしょう。基地の過重負担を押し付けたままの私は、そういう意味ではもう歌えません。沖縄の人は誰に向かって返せというのでしょうか。

沖縄の人が今この歌を歌う場合、実質的に独立国だった沖縄を取り戻そう(前出拙ブログ参照)、沖縄独立という意味が含まれるようになることを、私は恐れます。それは、沖縄の人が、日本国に対して「沖縄を返せ」と歌うということです。


しかし沖縄の人が沖縄差別のひどさから日本国から独立したいと思うなら、私はそれも良しと思います。彼等の意思を尊重します。中国は喜んでそれを承認するでしょうから、日本国からの独立は可能かもしれません。その場合沖縄を舞台に米日・中の戦争があるかもしれません。それは不幸すぎます。日本国民は、そうならないよう、沖縄をほんとに「本土並み」にするように努力すべきと思います。

私は現在でも安保条約反対の考えです。けれど安保反対の前に、米軍基地を認めてでも、沖縄のほんとの「本土並み」を実現すべきと思います。