なにー、「自己責任」だって、バーカ、それを言っちゃおしまいよ

映画「男はつらいよ」の新作が20余年ぶりに作られるという。ファンとしては大いに期待している。

とはいっても私は、「男はつらいよ」を劇場で見たことがない。一本も見たことがない。退職後暇ができ、ワオワオで全シリーズを放送したのを妻がとっていて、それを見てからのファンである。


このブログを始めたころ、「男はつらいよ」の感想文を数回書いた。


今はこれまでとは違った感想を持っている。


それは、虎屋(車屋)の皆の温かさである。妹さくら、その夫博、さくらを育てたおいちゃん、おばちゃん、隣家の印刷工場のタコ社長。そして車寅次郎その人の温かさである。
寅のやさしさには触れない。


中学でぐれて(懐かしい言葉だ)家出をして20年。香具師をしながら全国を回るフーテンの寅が帰ってくると、彼らはなんだかんだ言っても温かく迎える。わがままな寅は、いろいろ騒動を起こす。そして飛び出す。しばらくするとまた戻ってくる。それを迎え入れる虎屋の面々。寅の引き起こす騒動と失恋。この映画はこの繰り返しである。特に前半。


旅先の寅は、孤独な人、困っている人、弱い人に言う。「東京は柴又帝釈天の参道に虎屋というだんごがある。そこにはきっとお前の面倒を見てくれる人たちがいる」と。そしてそういう人が虎屋を訪れると、虎屋の面々はいろいろ面倒を見てくれる。


寅次郎も普通の生活ができない男である。定職に就くことができないのである。社会のはみ出し者である。それゆえ、自分の好きな人に好きといわれても、結婚もできないのである。そんな寅を虎屋の人たちは温かく迎える。


寅自身もそのような生活の孤独・苦しさ・悲しさをひしひしと感じている。それは己が悪いのだと思っている。自己責任だとよくわかっている。だからこそ、結婚しないのである。相手の人生に責任を持てないからである。


虎屋の人たちは、普通に生活できないこの寅を「自己責任でしょ」と冷たくあしらうことはない。寅を怒り、受け入れ、心配し、同情し、世話している。


虎屋の皆のやさしさは、あり得ぬ幻想か。勿論全48作は作り話である。しかし、虎屋の人々のやさしさがまったく存在しない事なら、寅シリーズは成立しない。なぜなら寅は帰ってこないだろうから。虎屋のやさしさがなければ、寅は存在しない。映画も存在しない。シリーズが成立したのは、見るもの=日本国民が、虎屋のような優しい人々がいるという前提を暗黙裡に承認しているからである。ダメ寅を思う気持ちや弱い見知らぬ他人を気遣う心が存在しないものなら、観客は、寅のお話を不自然と思うのじゃないか。不自然と思えば、ヒットはしないし、48作も続くはずがない。日本国民は冷たい国民か?そうじゃないんじゃないか。優しさに共感する国民なんじゃないか。少なくとも優しくありたいとは思っているのじゃないか。


寅の人生のすべては自己責任である。そんなことは当たり前である。いや子供を除いて、そして偶然の出来事の影響(遺伝、生まれた家庭環境、事故災害等)ーそれは巨大だけれどーを除けば、誰の人生もすべて自己責任である。


しかしである。他者に対して「それは自己責任」といって切り捨てたら、それでおしまいである。自己責任ですべてを片付けるなら、極論すると、国家もいらなきゃ社会もいらない家族もいらない。道徳も宗教もいらない。

自己責任は当然として、他者を自己責任と切り捨てることなく、何とかしようというのが人間じゃないのか。

寅次郎は自由人である。組織に属さない。生活保護等国家にも頼らない。自立している。不羈独立の人である。自己責任で完結している。強い。しかし病気の時、けがの時、高齢になってバイができなくなった時どうするか。弱い寅はどうする。妹と虎屋を頼るだろう。さくらは「兄ちゃん、自分のせいよ」とか言いながら優しくよく面倒を見るだろう。虎屋の面々は、「馬鹿、だから言っただろう」といいながら優しく面倒をみるだろう。タコ社長は「困った時は相身互い」といいながら優しくよく面倒見るだろう。


「それを言っちゃおしまいよ」は、おいちゃんが馬鹿な寅に頭に来て「出てけ」といったことに対する彼の言葉である。私は、強いフーテンの寅が、「(他者に対して)自己責任と言っちゃおしまいよ」と言っているよう思う。虎屋の面々が、彼らを取り巻く人々が「自己責任なんて言っちゃダメ」と言っている気がする。


男はつらいよ」は、高度成長末期(1969)に始まり、バブル崩壊数年後(1995)に閉じた。この間日本はGNP(のちGDP)で世界二位に躍り出て(1968)、それを保持し続けた(2009年まで)。日本社会に余裕があったのだと思う。企業は、終身雇用・年功賃金制を保持できた。個人経営の商店もなんとかやっていた。だから、寅は、虎屋の人々は、タコ社長はあのように他者を気遣う方ができたのかもしれない。

いま「男はつらいよ」という映画が成立するか?・・・。

現在の、(そして将来はますます)余裕ない日本社会で、それを言っちゃおしまいの「自己責任」と切って捨てないために、どうするかを考えねばならない。