断捨離の講演会に参加して

我が家の近未来最大の課題は、3世代家族が、このまま同居で過ごすか、若者たちが出て行って別居するか、ということである。それによって、現在住んでいる家を新築するか、しないかという大きな問題も発生する。若者夫婦が出ていくなら、勿論家はこのままである。同居なら、近い将来この場所に新築することになる。数千万円の話である。

 

これは、変数が多すぎで、方程式を解くようにはいかない。妻が言うには、若者たちの決断に任せるべきという。それは、その通りではある。

 

 

いずれにしても、モノは減らさねばならない。私の最大の所有物=本は、退職後10年で4分の1くらいに減らした。洋服は、3分の1くらいに減らした。もともと服はあまり持ってないからいいが、本はまだまだまだいっぱいある。実は、仕事に関したものもまだ結構ある。モノを減らしたいと常々思っている。

 

そんなところにいいチャンスが到来した。

 

相馬市民会館で「断捨離」の講演会があった。講師は、こばやしりえさん。

2時間で多くのことが語られた。

全体としては、よくわからなかった、という印象である。その中で、ぼんやりわかったという事をレジュメを参考に、まとめておく。

(1)家と住まいは違う。家も「モノ」であり、住まいは「人が主」である。

(2)モノに片が付けられないのは、人よりモノを優先しているため。

(3)断捨離の「断」は、不要なモノの流入を断つこと、「捨」は、不要なモノを捨てること、「離」は、モノへの執着から離れること。

(4)断捨離は、終活とは違う。終活は他人のため、断捨離は、自分のため。

(5)断捨離は、「今の私」とモノの関係を問い直すことが大事。今を中心に考えよ。未来と過去に魂が縛られてはダメ。

今私が、読む、着る、食べる、飲む、・・・ことがモノの価値の判断基準。「将来使うだろう」、「昔使っていた」というのは、モノ中心の考えで、断捨離の真逆。

(6)断捨離の対象には、①忘却グッズ、②放置グッズ、③保留グッズがある。いずれも、ごみである。まずは忘却グッズを捨てることから始めよ。

(7)住まいには、①自由席、②指定席、③グリーン席がある。モノがごちゃごちゃあふれている住まいは、自由席にもならない。貨物列車である。一度はグリーン車に乗るべきである。ゆったりとした空間と快適さを経験すべきである。住まいをグリーン車にせよ。

 

もっと重要なことも言われたろうが、私のアンテナに引っかからなかった。

 

モノを減らそうと思って参加したが、その動機付けにはあまりならなかった。しかし、物減らしに、ほんとに本気になった時、参考になる話だろう。

 

 

 

私はだいぶモノを減らしたが、妻や娘らは減らしていない。むしろ増やしているように見える。そこで、彼らを説得する理屈の一つでも仕入れようかという気持ちもあったが、甘かった。講師は、他人に断捨離を言うのは大間違いという。

 

 

考えてみれば、

各人の持ち物は、その持ち主との関係しかないわけである。妻の洋服は、私には不要のごみに見えても、彼女の思い入れがあるものなのだ。

 

断捨離は、他人に言うべきことではない

 

 

 

大学時代は、10畳に3人、8畳に2人で生活していた。物なんぞなくたって生活出来るのはわかっている。若いころは、子供たちが走り回るスペースがあった。大の字になれる空間がソチコチにあった。その方が豊かなのは間違いない。

 

一方また、もしいくらでも収納できる住居、物置、蔵、敷地があれば、断捨離は不必要なのではとも思う。しかし、それは、ものに縛られているのも間違いない。

 

 

自分の居場所がなくなるほどのごみがあっても、ごみ屋敷のご主人は、それで満足しているのだろうから、それで幸せというべきじゃないか、とも思う。勿論他人に迷惑をかけてはいけないけど。

 

江戸時代や戦前の、「 ♪♪9尺2軒が始まりで♪♪ 」(村田英雄「夫婦春秋」)の長屋の住人には、モノはほんとになかったろう。ものに執着なんてできないだろう。戦後だって、「 ♪♪3畳一間の小さな下宿♪♪ 」(かぐや姫神田川」)の生活に、モノに執着はないだろう。いやできないだろう。

 

 

執着か。

これが大問題だな。

神田川」の2番の冒頭「 ♪♪あなたはもう捨てたのかしら。二十四色のクレパス買って、あなたが描いた私の似顔絵♪♪ 」の似顔絵を、描いた彼は、持っているだろうか?

 

同棲を卒業し、あたらしく出発しようと決心した彼は、恐らく持っていないだろう。では、出発できなかった彼は、どうか。年老いてもう出発することのできない彼は、(その時まで持ってたなら)、捨てるだろうか。

 

 

鴨長明吉田兼好の隠遁生活は、過去を断ったものだろう。その断ったものは、モノだけじゃないだろう。人とのしがらみだろう。世の中とのしがらみだろう。

 

しがらみとは、「自分の行動を束縛する、ある何か」だろう。

一方で、「人は人のために生きることで、生きる意欲が出る」のも間違いないことである。人のために生きるのは、しがらみか?

 

 

連想がいろんな方向にさまよい始めた。まとまりがつかなくなった。

 

 

頭を 断捨離に戻そう。

自分とモノの関係を考えればよい。自分は、自分に残されているモノたちを、今不要と思うか、必要と思うか、だけなのだ。多分(笑)