雨の日の雑感

どうもねえ、何とかならないものかねえ。

原発からの核汚染水を海水に流すことである。政府は、漁業関係者や福島県民の多くの反対を押し切って、流すことを決めた。

 

保管場所がなくなるから、とのことだ。海水に流しても健康上の被害はないという。基準以下に放射性物質を除去してから流すと言っている。

 

それを信用すると、健康上の被害はないだろう。しかし、風評被害は必ずある。その対策もとるという。その対策は有効だろうか。海水放流に反対している韓国は、日本からの海産物輸入規制を緩めないだろう。結局損害はある。

 

保管場所はほかにないのか。保管場所確保にほんとに努力したのか。保管場所を東電敷地外にも求めることはできないのか。どうもうさん臭い。

 

 

やむなく海水に流すなら、忘れちゃいけない条件がある。

 

努力しても保管場所がないことの証明、実効性のある風評被害を抑える対策、基準以下に有害物質を除去すること、という条件以外にも、忘れちゃいけない重要な条件がある。

 

それは、原発をなくすことだ。こんな被害を与える可能性のある原発をやめることだ。それが欠かすことのできない条件だ。

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言わずもがなのことを言おう。

後世の人に「お前はその時何言ってたのか、何してたのか」と言われないために言う。また、意見表明は民主主義の基礎と思うので、言っておく。

 

菅首相靖国神社への真榊奉納のことである。

これは、

憲法20条①項「・・・いかなる宗教団体も、国から特権を受け、・・・・ならない」

同③項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」に違反する。

菅首相は、内閣総理大臣という肩書を付した奉納物をささげた。それは、靖国神社という宗教団体が、国から特権を受けることである。それは、国による宗教活動である。たとえ私費で菅首相が奉納物を買ってもである。勿論靖国神社の評価に関係なく言っている。

 

言うまでもないが、マスコミなどに注目されない場で、菅義偉という個人名で何かを奉納することも、さらには参拝することも、憲法違反でない。自由である。

 

しかし、公人には自由はない。この意味で、「総理自身の判断」と言った加藤官房長官の発言は、間違っている。公人には、公人と分かる状況では、行動の完全な自由はない。

 

各官庁、公立学校に対して中曽根元総理の葬儀に弔意を表してほしいという内閣や文科省の要請は、憲法第20条②「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」に違反する。

 

国立大学の学長の中には、学長室に弔旗を飾るなんて言う人もいるが、学長というものも公務員である。公務員も憲法の言う「何人」に入る。内閣・文科大臣の言うことを聴く必要はない。

勿論内閣・文科大臣・学長は、国家機関故、要請することも要請を受けることも、20条③に違反する。

 

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日本国民の知的衰退を心配する。文科省の愚民化政策に反対(笑)!

 

今日の朝日新聞の別刷りに、夏目漱石の「今こそ読みたいランキング」が出ていた。

1.坊ちゃん。2.吾輩は猫である、3.こころ、4.三四郎、5.それから、以下、草枕、門、

夢十夜虞美人草、明暗となっていた。

 

私は、猫、虞美人草以外は読んだ。いずれもまあ面白かった。好きなのは、こころ、それから、である。

まあ、そんなことはどうでもいい。

 

この特集の中でこんなことが紹介されていた。

2022年改定の学習指導要領では、高校現代国語が「論理国語」と「文学国語」に分かれる。受験対策上「論理国語」(論理的、実用的文章)が選択され、「文学国語」(文学的文章)が選ばれなくなるのでは、ということである。

 

実用的文章ってなんだ?取扱説明書?法律文や条例文?論理的文章というと、受験の時の評論文とかかな。それは、難しかった。面白くなかった。

 

受験本には、評論文の読解のテクなんてあったけど、それで分かったということはないな。

 

取説文とか法律文とか、評論とか好きな人ってあまりいないんじゃないか。法律家や官僚だって、めしのため、仕方なく読んでるんじゃないか。

 

受験のため「論理国語」を選ぶ人が多くなると、文章を読むことが嫌いな人が多くなる。我々は、たいてい文章で物を考える。そうなると、日本国民の知的レベルが落ちる。つまり愚民化政策だ(笑)愚民の方が支配しやすい。政権の永久支配のための高等戦術である(笑)

 

しかしさすがに、日本政府と言えども、国民に愚民になってもらっては困るので、賢くしようと「論理国語」を独立させたのだろう。

 

しかし、文章を読まなくなるのも事実だ。それは知的レベルを落とす。

 

そんなことがわからないのかな。こんなことを考えたのは、法学部出身の馬鹿官僚だろう。きっと。(笑)

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心痛むなあ。難しいなあ。

 

軍歌のことである。

 

今から40数年前、私は、職場組合の飲み会で、軍歌を歌う先輩を軽蔑し、輪になって肩くんで歌うことを拒否し、座り込んだ。いやしくも「平和」を標榜する組合である。軍歌を歌うなんて、怪しからん。そう思ってた。

 

今もそう思うし、今後も歌うつもりはない。君が代も同じである。

 

しかし、である。近頃こうも思うようになった。先輩の中には、兵隊に行ったものがいる。軍歌は彼らの青春の歌である。私もまた、1960年代から70年代初頭の歌がどうしようもなく好きである。青春の歌なのである。私の感性が、60年代から70年代なのである。(10代から20代)それは、軍歌を歌った先輩たちも同様である。

 

今から考えると、彼らが軍歌を歌うのを否定すべきではなかったかな、とも思う。なんせ、彼らの青春だもの。

 

いや、軍歌の歌詞やメロディーは、彼らの心の琴線に触れるものがあったのだ、と思う。それはいい悪いを超越することとも思う。

 

♪若き血潮の予科練の♪で始まる「若鷲の歌」は、義父(特攻隊生き残り)の持ち歌だった。この歌は、予科練生に選んでもらったのだという。作曲者古関裕而は、この歌で長調短調の曲を作っており、彼らは、短調を選んだのだという。心に触れる曲であったろう。しかし、この歌に惹かれて予科練を選び、死んだ者も多かろう。作詞者・作曲家は、間接的に若人を殺したことになるのか?

 

 

こんなことを言うのは、今NHK古関裕而をモデルにした朝ドラ(エール)をやっているからである。今日の天声人語でも取り上げていた。

 

ドラマでは、古関は軍歌を作ったことで、多くの人が死んだことに罪を感じている。

 

国家全体が、戦争遂行に全力を挙げてるとき、詩人が、文学者が、絵描きが、音楽家が、戦争遂行を応援する芸術作品をつくるのは罪か?

 

確かに戦争に否定的で、否定的な詩を作ったものもいた。筆を折ったものもいた。確かにそういう芸術家もいた。それは偉いと思う。立派である。

 

しかし、時流に乗った者たちは罪深いか?

 

分からぬ。