塩野七海の「コンスタンティノープルの陥落」(1453年)、「ロードス島攻防記」(1522年)、「レパントの海戦」(1571年)を読んで、ヴェネツィア共和国の外交は、柔軟性に富み、なるほど外交とはこういうものかと、感心しました。
但し、原史料に当たっているわけではなく、また他の歴史書を参照してるわけでもありません。以下に書くことは、あくまでも上の3冊で得た知識を基とする思いです。
(1)まずは、コンスタンティノープルが陥落(1453年)したときのヴェネツィア共和国の動きです。
陥落させたのは、トルコ帝国です。コンスタンティノープルは、ローマ帝国の末裔東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の最後の根拠地です。勝者はイスラム教国、敗者は、キリスト教国です。この陥落は、東地中海がキリスト教国支配からイスラム教国支配へ移る一大転機です。
ヴェネツィア共和国は、強力な海軍をコンスタンティノープルの支援に当て、奮戦しますが、トルコ帝国に敗れます。
敗戦後、ヴェネツィア共和国は、硬軟両作戦をとります。
硬は、トルコの攻撃に備えて、各海軍基地への臨戦態勢指示、攻撃が予想される地域への軍船増強、本国での軍船大建造命令です。
軟は、トルコへ急使を送っての通商再開への努力です。まず、スルタンへの贈り物作戦。さらに、「コンスタンチノープル陥落の際の損害の要求をしない」、その上「敵対したのは個人であり、ヴェルファイア国家としてはそれは遺憾」とまで使者に言わせました。国内では、戦ったヴェネツィア共和国「個人」の遺族に手厚い保護をします。
ヴェネツィア共和国は、コンスタンティノープル攻防戦では、西欧諸国で唯一国旗を掲げて戦った国家です。
ほかに、ジェノバ、クレタ、アンコーナ(イタリア)、カタロニア(スペイン)、プロバンス(フランス)の諸都市国家が参加してましたが、国家としては参戦してません。
トルコに対しては、個人として参加と言い(つくろい)、西欧諸国に対しては、ヴェネツィア共和国として戦ったと言って、西欧諸国の非難を弱化させ、トルコとの通商を復活させました。
通商で生きる国家の面目躍如です。見事な外交戦略です。
(2)この個人と国家を使い分ける作戦は、ロードス島攻防(1522年)でも発揮されます。ヴェネツィア共和国は、中立を宣言しつつも、自国の最優秀の築城技士が自国領クレタから脱出するのを秘密に援助し、ロードス島を支援させます。これでトルコにも恨まれず、西欧諸国からも非難されないようにしました。
(3)さらに見事なのは、レパントの海戦勝利後の行動です。
1571年のレパントの海戦は、スペイン王国、ヴェネツィア共和国、ローマ法王庁、イタリア諸都市、聖ヨハネ騎士団が同盟を結び、トルコ帝国海軍を決定的に破った海戦です。海戦の中心は、やはりヴェネツィア共和国海軍です。
しかし大損害を受けたトルコは、海軍復活に力を注ぎます。同盟側は、次の決戦に備えますが、なかなか足並みがそろいません。
1572年には、同盟側は出撃しますが、意思疎通ができずまとまりません。トルコ側も様子見で、大決戦はありませんでした。
この冬、ヴェネツィア共和国は、まとまらない同盟国側に見切りをつけ、コンスタンティノープルの外交大使バルバロを通じてひそかにトルコと交渉します。
1873年春、交渉が成立します。
トルコに占領されていた元の自国領キプロス島放棄(!これでも勝者?)の代わりに、全トルコ領内での経済活動の自由を得たのでした。
これは西欧諸国から厳しく非難されます。なんせ同盟の「単独で講和はしない」という約束を無視したからです。
ヴェネツィア共和国は、同盟を見限り、トルコ領内での通商を優先させたのでした。
通商で生きる国家だからです。
これは、フランス(仏)とスペイン(西)という当時の2大強国の争いに巻き込まれないためでもあります。フランスはスペインに対抗するためトルコと手を結ぶという秘密交渉をしていました。この2大強国のどちらにも味方せず、中立というスタンスで、単独でトルコと講和します。
仏西両大国の対立に巻き込まれないよう、しかも命綱である通商を最優先して、不利な条件でも、これまでの激戦相手トルコと単独で講和します。
このヴェネツィア共和国外交についてはいろいろ評価できると思います。
二枚舌、ずるい、と見えるかもしれません。トルコに対しての言い分(個人が参戦)とキリスト教同盟に対する言い分(国家として参戦)はあきらかに違います。
また、キリスト教同盟国側にとっては裏切り者と見えるかもしれません。キリスト教徒にとっては、イスラム教側に寝返ったと見えると思います。
私は、しかしこれを立派な外交と思います。
ヴェネツィア共和国は、海洋都市国家です。根本は、通商です。膨張するトルコ帝国領内各地との通商は、命綱です。
フランス・スペイン・トルコは、広大な領地と多くの人口を抱える大国です。こんな中で、生き延びていくには、二枚舌も同盟への「裏切り」もやむを得ない事と思います。
ヴェネツィア共和国は、いつもどこよりも率先して全力でトルコと戦ったという事実があります。
1453年の敗戦後は、二枚舌を使っても通商獲得は必要でした。1571年の勝利後も大国間の争いに巻き込まれず、通商を維持するには、敗者トルコとの不利な単独講和も必要でした。
私は、この柔軟性は、見習うべきものと思っています。
但し、レパントの海戦前後の5年間、コンスタンチノープルでトルコとの交渉に当たった大使バルバロは、本国の姿勢を厳しく批判します。
「国家の安全と永続は、軍事力によるばかりではない。他国が我々をどう思っているかの評価と他国に対する毅然とした態度によることが多いものである。ここ数年、トルコ人はわれわれヴェネツィアが結局は妥協に逃げるという事を察知していた。それは、我々の態度が礼を尽くすという外交上の必要以上に、卑屈であったからである。ヴェネツィアは、トルコの弱点を指摘することを控え、ヴェネツイアの有利を明示することを怠った」(「レパントの海戦」P258)
参考
確かに柔軟性は、毅然とした態度には見えません。しかし生きるためには仕方がないのではないかなと思います。一方、トルコ派遣大使バルバロの言うことも尤もと思います。
柔軟性と毅然とした態度の両立!
私は、このバルバロの言葉で、戦後の日本外交を思います。米国に対して卑屈すぎるんじゃないかとずっと思ってます。
一方でまた、ヴェネツィア共和国の外交の柔軟性についても、日本外交を思います。
あまりに柔軟性に欠けているのではないかと。米国一点張りすぎるんじゃないかと。
戦後日本外交は、卑屈で毅然としてない上に柔軟性に欠けると思います。
毅然とした姿勢を持ちながらかつ柔軟性が欲しい。
毅然とした姿勢とは、筋の通った一貫性と思います。しかも他国も認める一貫性と私は思います。
現代での他国も認める筋の通った一貫性とは、二つの大戦の反省のもと、世界がつくった国際法に基づいた外交と思います。
世界が認める国際法は、安全保障面では、集団安全保障方式(集団的自衛権の対極のもの)です。この安全保障方式は、日本国憲法と対をなすものです。この二つは親子なのです。
わが国は、日本国憲法をよりどころに、この安全保障体制を求め続けるべきでした。
それでこそ、毅然とした一貫性のある、かつ他国から認められる国家であったと思うのです。それと柔軟性(一応:個別的自衛権(自衛隊)、集団的自衛権(日米安保条約)と考えて)との関連ですが、・・・・。
このことについては、別仕立てで、述べたいと思います。まとまればですがね。