ブログ知人のずかともさんとcangaelさんの記事で知ったことです。
卓球の早田ひな選手が、五輪帰国後の記者会見で「今やりたいことは」と聞かれて「特攻記念館に行きたい」と答えて、中国・韓国の一部の人が、批判しているというのです。
彼女は記念館訪問の理由を「『私が今生きていること、卓球ができることは、幸せなこと』を確認するため」といいます。
すごくまっとうな考えじゃないですか。確かに特攻の若者には、スポーツの楽しみはなかったでしょう。楽しみどころか、命まで失ったのです。早田さんは、立派な心掛けと思います。
ずかともさんおっしゃる通り、「自国の歴史を勉強するのに問題なんてない」し、「今の平和は多くの犠牲の上に成り立っていることを知るのに何の問題」もないです。
引用:
そういえば、女子卓球の早田ひなさんが「特攻記念館に行きたい」と言っただけで、中国や韓国のウマシカ者どもが大騒ぎしているとか。 自国の歴史を振り返ることのどこが問題なの?? 今の平和は多くの犠牲の上で成り立っていることを改めて思い知ることのどこが問題なの?? 今の中国、韓国の若者がどんな教育を受けたのか(詳しくは)知りませんが、何でもかんでも問題視する姿勢にはうんざりします。 でもまぁ、特攻隊のことは知っていても、隊員の多くが若者だったこと、愛する人を残し、守りたいという覚悟を持って飛び立って行ったこと、本当は死にたくなんかなかった人たちであったことなど知らないのでしょうね。
お盆休みも終わり・・・ - 自閉症児と頻尿おやじの不安払拭・未来開拓
ところが、中韓の一部の人やマスコミには、特攻記念館に行くことは、「特攻を美化して、戦争を賛美すること」「あの戦争での日本の加害行為を忘れている」と見えるようです。
私の妻は、「中国や韓国の連中が考えてることなんて知らない、ほおっておけばいい
と言います。
しかし私は、どうしてそうなるのか、は大いに気になります。日本は、中国や韓国と考えは違っても、仲良くやっていくほかありません。相手が何を思っているかは知る必要があると思うんです。
どうして、早田選手の特攻記念館訪問が反発されるのか。
その理由の一つは、
cangaelさんがおっしゃるように「日本人は戦争について加害を語らず・・・被害面でしか語ってこなかった」ということが大きいと思います。
引用:
◎パリ五輪の卓球で大活躍の早田ひなさん、中国でも大人気だそうですが、五輪が終わった後、「特攻資料館へ行きたい」と発言して、中国人ファンが4万人減とか。日本人は「戦争」を加害で語らず、アメリカの原爆や空襲の被害面でしか語って来なかった事が影響していますね。大陸進出(侵略)してアジア中真っ赤に日本の勢力圏を示した戦争中の地図を母が見せてくれたことがありました。地続きではない島国の日本ゆえ肌身で感じない隣国の思いに想像力を働かせないといけないんでしょうね。
「早田ひなさんの『特攻資料館行きたい』に中国フォロワー4万人減」「辺野古・大浦湾くい打ち」「日米地位協定」「デブリ取り出し延期」「火垂るの墓」「京都国際高校野球優勝」などなど - 四丁目でCan蛙~日々是好日
この夏、NHKでは、太平洋戦争の関係のドギュメンタリーやドラマがいっぱいありました。しかし、被害面ばかりで加害面を直接扱ったものはなかったと思います。
日本人の戦争の死者310万人に対して、東アジアでの死者が2000万人(満州事変~太平洋戦争)です。辛いですが、加害の面も日本人はよく知る必要があります。報道も大いにすべきでしょう。
ドイツでは、ナチスのユダヤ人虐殺・絶滅作戦を隠すことなく教え、国民の間で共有していると聞きます。だからこそ、ドイツは長い仏英との恩讐を超えてEUの中心となりえているのでしょう。英は離脱しましたが。
ドイツに比べて、戦後日本の場合、加害面とか、戦争責任とかをうやむやにしてきたのも間違いないと思います。
そして、政府を構成してきた自民党のかなりの部分が、戦争の加害面や戦争責任を軽視あるいは否定する傾向にあるのがすごく大きいと思います。
古くは、アジア侵略を「進出」と言えと圧力をかけた問題(教科書問題)
かつて閣僚の問題発言もいろいろありました。「日本に侵略意図はなかった」とか「南京大虐殺はでっちあげ」とか。「いつまで謝罪しなければならないのか」、とか。
、
そして靖国参拝。
この夏も「終戦記念日」に閣僚や元閣僚の靖国神社参拝がありました。新藤経済再生大臣、木原防衛大臣、高市経済安保大臣、小泉進次郎元大臣等等。
彼等の行為は、政教分離の憲法原則に違反してます(閣僚が、多くの人が見る場面で、政治的意見の対立のある場所で行動すれば、それは公人の行為)。憲法違反のやってはいけないことですが、それは今はおきます。
参拝した彼等は、ほぼ異口同音に「国に殉じた方々に対する尊崇の念を表すため」と言います。
しかし、ここを考えてみましょう。
この「国に殉じた人々」が何をしたか?客観的に見ると中国・東アジアを侵略したのです。そこには合法的な戦闘行為ばかりでなく、犯罪行為もあったでしょう。少なくとも全体として極めて迷惑な行為(こんな言葉では中韓に怒られるな)をしたのです。
そういう人々を尊崇するとは、日本は、悪いことをしてない、つまりアジア・中国侵略は悪くなかったと言っていることになります。勿論日本の侵略戦争の責任で(背負わされて)処刑されたA級戦犯を、靖国神社は、(いつの間にか)合祀しているのですから
中韓から見れば、戦争を指導した人を尊崇していることになり、日本は反省してないとみられるのも仕方ありません。
このように自民党政府の中枢のある人々の行為は、中国・韓国から見れば、日本は、あの戦争を反省してないとみられます。
つまりこのような自民党の一部の行為が、一部の中・韓の、早田選手への批判を生み出していると言えると思います。
自民党に政治を任せることは、日本国民と中・韓との仲たがいを生みやすいでしょう。まあそれも今は、おいときましょう。
さて、特攻記念館を訪問することは、特攻を美化し、戦争を賛美することになるか?
実は、私も知覧特攻平和記念館に行ったことがあります。40余年前、新婚旅行で行きました。31か2歳でした。観光バスツアーのコースに入ってました。
私は、特攻隊員の遺書を見てなんと無残な、可哀そうな、戦争は絶対やっちゃいけないと再認識しました。
こう思う人が多いとは思います。
しかし違う日本人もいます。
自分を犠牲にしても国に尽くす美しい行動だとか、家族を守るため国を守るため、命を捨てて敵を撃滅する、これこそまことの心だとか。さらに「戦後は、自分のことばかり考えて国や社会全体のことを考えてない、(暗に)特攻隊を見習え」なんてことも言う人がいます。
特攻隊員の遺書の中には、確かにお国のために尽くすのは本望、とか嬉しいという
遺書が多いと思います。知覧でもそうでした。
これを見て、日本人の一部は、特攻を美しい行為だと美化します。だから、中韓の人々の一部が、戦争賛美してると思うのも当たり前だと思います。
ここからこういうことが言えると思います。
特攻を美しい行為とか見習うべき行為だと称揚する一部の日本人が、間接的に早田選手への批判を生じさせていると。
さて、私が同じ遺書を見て、特攻を美しい行為と見ずに、「無残だ」とか「可哀そう」とか「こんなことあっちゃいけない」と何故思うかというと、
「お国のために尽くすのは本望、うれしい」、という遺書の内奥に、彼等は本当の気持ちを圧殺していると思うからです。
何故本当の気持ちを圧殺するか、それは、当時の将兵を取り巻く背景にあります。
お国に尽くすのが国民の生きる道という教育がありました。(「一旦緩急あれば義勇公に奉じ・・・」(教育勅語))
軍律がありました。軍の厳しい検閲もありました。検閲への忖度も勿論あるでしょう。親や家族を悲しませないため、元気に死んでいったと思われたいという気持ちもあったでしょう。親や家族の世間体を考えた面もあったと思います。建前で行動するということが普通でもありました。
しかし、兵士たちが残した日記・遺書には、建前でないほんとの気持ちが表れているものがあります。
私が「特攻隊員が本当の気持ちを隠しているのでは」と思う根拠の一つに、「きけわだつみの声」があります。
これは当時のエリートたちの日記・手紙・遺書です。学問をして自分の意見を持てた数少ない人たちです。(それは特攻隊員ばかりではないですけど)
ですが、エリートでない人も、本心は同じじゃないかと思うんです。国家のために尽くすという気持ちと同時に多くの悩みがあったのではないかと思うのです。
「きけわだつみの声」には、軍への批判とか戦争への疑問の声ばかりを意図的に集めて、殉国精神あふれた声(その方が圧倒的に多い)を除外した、という批判があります。
それは事実でしょう。編集者等も認めています。編集者などは、言訳を言ってますが、それが私はわからぬわけでもないですが、殉国精神あふれた声を除外したのは、大きな間違いと思います。(編集者の中でも間違いを認めている人もいます)
第一亡くなった方々に失礼なことと思います。
しかし、忠君愛国の教育の下に育ちながら、社会の風潮が尽忠報国の中でも、また厳しい軍律・検閲の中でも、自分の本当の気持ちを述べた若者もいました。
繰り返しますが、教育の程度に差があれ、本心は皆同じじゃなかったのかと私は想像します。
中国では、戦前日本の中国侵略の悪行を教えているそうです。私は、それに文句をつける気はありません。事実であれば当然でしょう。日本でも本多勝一「中国の旅」、森村誠一「悪魔の飽食」等自国の悪事をえぐったものがあります。その他自分あるいは他人の悪行(殺人・強姦・強盗・破壊・いじめ・・)の手記が結構多くあります。
ただすべての日本軍兵士がそうだったとは言えません。中国や外国に対して人間的な優しい気持ちを表したものもあります。
このことは、中国・韓国の人だけでなく、日本侵略行為を受けた東アジアの人々も知ってほしいと思います。
では、
「きけわだつみの声」から例をあげてみます。
川島正(昭和20年1月華中にて戦死。24歳)
昭和18年1月31日
夜中一時半本部よりの電話に接し、5時半凍てつく寒夜を残雪を踏んで討伐に出撃。
中沢隊の一兵が一シナ人を岩石で殴打し、頭蓋骨が割れて鮮血にまみれ地上に倒れた。それを足蹴にし、また石を投げつける。見るに忍びない。それを中沢隊の将校も冷然と見ている。高木少尉の指図らしい。冷血漢。罪なき民の身の上を思い、あの時なぜ
遅ればせながらでも良い、俺はあの農夫を助けなかったか。自責の念が起こる。女房であろう。血にまみれた男にとりついて泣いていた。しかし死ななかった。軍隊が去ると、立ち上がって女房に支えながら、トボトボ歩き去った。
俺の子供はもう軍人にはしない。軍人にだけは…・平和だ。平和の世界が一番だ。
昭和18年2月10日
「民心の把握について」師団司令部より訓示がきた。まったくだ。威圧と恐怖の手段のみでは、統治は不可能だ。従来の駐屯部隊の暴虐はひと騒動来なければ不思議なくらいだ。
シナ事変は陸軍の勝手な功名心より勃発した戦だから致し方ない。
二連隊の将校以下20余名が部落民に殺されるという事件が起こったが、来たるべきものが来た感じだ。
浜田忠秀(昭和19年11月23日長沙にて戦死。23歳)
昭和17年7月28日
ひどく疲れた時すべてを物憂く感ずるとき、そしてマラリアの熱にうなされる時は、「作戦そのものに飽きた・・・」と思う真実の叫びだ。草枕行手は遠く何千里!
・・・・ピッケル持つ手を銃に変えて消耗しきった身体を雁坂のような峠へ運んだ。奥まるに従い四囲の山全てが、竹、竹、・・・薄緑に映えてまず平和そのものの所にきれいな部落が一つ。なんだか桃源郷にでも入った気がする。
戦いさえなくば、こんな山奥ではこの部落なりの生活にまったく楽しく明るかったであろうと、つくづく思う。・・・
福島武彦(昭和19年1月洛陽攻略の際戦死。22歳)
私が初めて”一郎”を知ったのは、湖南省江県と梅仙県との境なる峠においてであった。
・・・・実際”一郎”は上品であり、またその笑顔は可憐なはにかみを含んだ麗しいものであった。彼女が笑うその顔は一抹のさびを持っている。彼女の年は今年とって11歳。ほんとに可愛いいおとなしい坊やである。そのうえ一郎の一郎たるゆえんは、日本語を少し解するがゆえに、まことに愛嬌があり親しみやすいという点に存する。
・・・・しょんぼりとしてさあらぬ山の彼方を裏ましそうに眺めやる。11歳の子供には
、われわれのそれにも増した望郷の念切なるものがあるのであろう。
・・・「大車坪が大車坪(一郎の故郷ーA0153注)とぐずりあげる。「おーお、
先生たちも(福島らの自称ーA0153注)あと少しで終わる。そしたら先生たちと大車坪へ一緒に帰ろう。きれいな着物と、かわいい靴と、お金をたくさん持って早く帰ろうなあ。さあ泣かないで泣かないで班長(福島の自称-A0153注)と一緒にねんねしな」と背中をさすれば、いつの間にか泣きつかれて、私の膝にねんねする可憐な、しかもきの毒な、敗戦国の子供、それがそのころの”一郎”であった。・・・
・・・ケン坊お前には気の毒だがこれも戦争だ。こうなった以上はどこまでも俺たちと歩くんだ。戦争が終わって戦いに勝てたら・・いつの日かわからないが・・先生たち(
福島たちーA0153注)と一緒に東京に行こうな、誰か救ってくれるさ、大学へ行くんだってな、ケン坊は。そうだ、そのうちにいい靴を挑発してもらってきてやるからなあ。
昭和18年6月12日
三月に入隊する。それも毎日毎日近くなってくる。今日はブーゲンビル島付近の戦闘が新聞に報ぜられている。大型輸送船大破とか、巡洋艦轟沈とだとか。あの大洋になぜ
飲み込まれて死んでいかねばならぬのか。日本人の死は、日本人だけが悲しむ。外国人の死は外国人のみが悲しむ。どうしてこうでなければならぬのであろうか。なぜ人間は人間で、ともに悲しみ喜ぶようにならないのか。平和を愛する人。・・・私のような意気地なしの者にはこんな言葉が痛切に感じてならない。
外国人であるがゆえにその死を日本人が笑ってみる。これは考えてもわからない。
・・・・
昭和19年3月某日
・・・私は戦いを抜きにして戦いに行く。その言葉を解してくれるものはいないのかもしれぬ。ただ私は人の生命を奪おうとする猛獣心は今持たぬのである。そうしてこの哀れな、まるで渦中に吸い込まれるような思いで、私は戦に行くのである。
また、
忠君愛国の建前と本心の葛藤を表している手紙・日記・遺書も多数あります。「きけわだつみの声」から拾ってみましょう。
田坂徳太郎(昭和20年8月バンカ海峡にて戦死。28歳)
・・・寝ても覚めても常に君のことばかりが頭を去らない。この気持ちは入隊して特に著しい。会いたい語りたいという願いは、君に劣らぬほどだと思う。・・・
狭く小さく君と僕とそれから直接血のつながる家庭を守って巷に隠れた町医となり、貧しい不幸な病人の友となって正しくつつましい生活がおくれれば、それが何より幸福であろうが・・・。
国家の総力を挙げて大東亜戦争のさなかにこんなことを書き考える幹部は、あるいは僕一人かもわからぬが、激流なるべき血潮を穏流ならしめたのも、こうした二人の関係であろう。それは自分を強くもし弱くもする。だが君のことを忘れなくとも、職務は十分遂行できると確信している。
昭和17年4月9日
福中五郎(昭和20年2月ブーゲンビルにて戦死。28歳)
・・・いいと思っていた戦友も、いよいよ本性を表してきました。一日に2回ぐらいの割合で殴られています。兵営内には一人として人間らしい人はいません。自分も人間から遠ざかったような気がします。・・・先週の日曜日、やはり便所の中で、母への手紙を書いた時は涙が止まりませんでした。。母には元気でやっていると書きましたが、僕の気持ちは死人同様の悲惨なものです。
こんな手紙を書いたのを2年兵にでも見つかれば、恐らく殺されるでしょう。
平井摂三(昭和19年9月ニューギニア島ブナにて戦死。24歳)
昭和17年月3月日
・・・今朝来も午前中は敵機の来襲しきり。上陸部隊も相当の被害をうけしならん。尊き同胞の血がここにも流れていく。国家生存という、否幾百万の日本人の生存の前の前の個人的犠牲、あんがい冷たい目で見られる。しかしあの中には夫の、父の、兄の出征によって既に路頭に迷っている妻や子があるであろう!国家はかかる個人的犠牲に対して全然盲目であっていいのだろうか?今の社会政策、それで十分なのであろうか?
住吉胡之吉(昭和20年5月24日東京空襲下で焼死。24歳)
昭和20年3月5日
・・・祖国愛、自分は従容として死につくことはできるつもりなり。しかし、国家に疑惑あるを否定しえない。国家は問題ではなく現在の日本自体が解答である。またこの美しくより高きを願う心が、現実の日本への割り切れなさとなって疼く。
昭和20年3月7日
苦しもう、苦しみを貫くことより解決の道はないのだから。・・・捨て石たらんとする意志すらひしがれんとする生活。だがそれはまだ自分が弱いからだ。-子のことにしたって、二人がこの現在の前途暗澹たる中にも本当の真心を通じあい、この恋をもっと
真たらしめんと汗と涙の中を通らなくては。・・・
昭和20年4月2日
・・・これまでの自分の苦しみは無駄ではなかった。死の恐怖、感ぜず。ただ有終の美を、自らが微笑みて死ねる最期が期せられる。祖国の為、愛する人々のために渾身の誠が尽くせるのだもの。だが生命惜もう。・・・・
昭和20年4月15日
勅諭の暗唱の強要、愚だ。それにつけても、今の気持ちは次第次第にコスモポリタン的になってくる。日本の今までの強制的な枠にはまりえないものがここに出ている。・・・
昭和20年5月4日
何度書いても書き足らぬ。この人生厳粛悲惨過酷なることを。そしてそれに対して自分はもっと強く正しく大きくなればと。正直に自分の日本に対する気持ち。日本は好きだ。愛する。だが日本の国体云々以上に、日本人は大きく人間の運命を考えなければならぬのではなかろうか。美しくも清き富士、郷土愛、民族愛が祖国愛たることならば、人後に落ちない。だがただの過去の歴史、国体のために戦うのはどうしても割り切れぬ。人間の悲惨事は、天皇では救えぬ。日本人一人一人がもっと立派にならなくては。人間がもっと広く大きな心になること。もっと人の汗と涙を知ることだ。さもなくば人間の運命は永遠に悲惨だろう。
菊山祐生(昭和20年4月29日ルソン島イビール部落にて戦死。23歳)
昭和18年10月11日
いったい私は陛下の為銃をとるのであろうか、あるいは祖国の為(観念上の)また私にとって疑いきれぬ肉親の愛の為にさらには常に私の故郷であった日本の自然のために、あるいはこれらの全部の為又は一部のにであろうか。しかし今の私にはこれらのために自己の死を賭するということが解決されないのである。・・・
松岡欣平(昭和20年ビルマにて戦死。22歳)
昭和18年8月27日
いよいよ自分も出陣。徴兵猶予の恩典がなくなり、まさに学徒出陣の時はきた。
自分は命が惜しい、しかしそれがすべてでないことは勿論だ。自分の先輩も、またこれから自分も、また自分の後輩も戦いに臨んで死んでいく。死、死、いったい死とは何だろうか。
それはともかくとしよう。先輩も自分も大東亜建設の為日本の安寧平和のため死んでゆき、あるいは傷つく。傷ついたくらいのものはともかくとして死んだものを考えよう。彼等は大東亜の建設、日本の隆昌を願って、それを信じて死んでいくのだ。自分もそうだ。そしてその大東亜の建設、日本の隆昌が遂げられたら死者また瞑すべし。もしそれがならなかったらどうなるのだ。死んでも死にきれないではないか。
戦いは勝っているうちはいい。それは防御となるとつらいのだと誰かが言った。
率直に言うなば、政府よ、日本の現在行っている戦いは勝算あってやっているのであろうか。いつも空漠たる所を夢見て戦っているのではないか。国民に向かって必ず勝つと断言できるのか。いつもこの断言には非常に無理に近い条件が付いているのではない
か。・・・
中村徳郎(昭和19年6月比島方面に向かい以後行方不明。25歳。)
(出征の途中、門司市より両親に書き送った最後の書簡)
父上・母上様、弟へ。門司にて 徳郎
何もかも突然で、しかも一切がほんの些細な運命の皮肉からこうなりました。しかし別に驚いてもおりません。
・・・これからの行く先は勿論分かりません。勿論最も激戦地であることは間違いありません。
・・・今の自分は心中必ずしも落ち着きを得ません。一切が納得がゆかず肯定ができないからです。苟も一個の、しかも人格を持った「人間」が、その意志も行為も一切が無視されて、尊重されることもなく、ある一個のわけもわからない他人のちょっとした脳細胞の気まぐれな働きの函数となって左右されるほど無意味なことがあるでしょうか。自分はどんなところに行っても将棋の駒のようにはなりたくないと思います。ともかく早く教室に帰って本来の使命に邁進したい念切なるものがあります。こうやっているとじりじり刻みに奪われていく青春を限りなく惜しむ気がしてなりません。自分がこれからしようとしていた仕事は、日本人の中には勿論やろうというものが一人もないと言っていいくらいの仕事なのです。しかも条件に恵まれている点において、世界中にもそうざらにいないくらいじゃないかと思っています。自分はもちろん日本の国威を輝かす目的ではありませんけども、しかしその結果として、戦に勝って島を占領したり、都市を占領したりするよりも、どれほど真に国威を輝かすことになるか、計り知れないものがあることを信じております。
・・・現在のような情勢が(戦争には勝つものと仮定しても)長い将来においていかなる状態を生むか、考えなければならないことです。およそなにびとが真の愛国者であったかは歴史が決めてくれるでしょう。
上原良司(昭和20年5月11日特攻隊員として沖縄にて戦死。22歳)
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊と言うべき陸軍攻撃隊に選ばれ、身の光栄これにすぐるものなしと痛感しております。
・・・これはあるいは自由主義者と言われるかもしれませんが、自由の勝利は明白なことと思います。人間の本性たる自由を滅ぼすことは絶対にできなく、たとえそれが抑えられている如く見えても、底においては常に戦いつつ最後に必ず勝つということは、かのイタリーのクローチェも言っている如く真理であると思います。
…今や権力主義的国家(イタリア・ドイツのことーA0153注)は・・次から次と滅亡しつつあります。自己の信念が正しかった、このことはあるいは祖国にとって恐るべきことであるかもしれませんが、吾人にとっては嬉しい限りです。
愛する祖国をして、かつての大英帝国のような大帝国たらしめんという私の野望はついにむなしくなりました。真に日本を愛するものを立たしめたなら、日本は現在のごとき状態に、あるいは追い込まれなかったと思います。
空の特攻隊のパイロットは一器械にすぎぬと、一友人が言ったことは確かです。操縦桿を取る器械、人格もなく感情もなく、勿論理性もなく、ただ敵の航空母艦に向かって吸い付く磁石の中の鉄の一分にすぎぬのです。理性を持って考えたなら実に考えられぬことで、強いて考うれば、彼らが言う如く自殺者とでも言いましょうか。精神の国、日本においてのみ見られることだと思います。一器械である吾人は何も言う権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめんことを、国民の方々にお願いするのみであります。こんな精神状態で征ったら、勿論死んでも何にもならないかもしれません。故に最初に述べた如く、特別攻撃隊に選ばれたことを光栄に思っている次第です。
・・・明日は出撃です。過激にわたり、勿論発表すべきことではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上のべたごとくです。何も系統立てず思ったままを雑然と述べたことを許してください。明日は自由主義者が一人この世から去っていきます。彼の後姿は寂しいですが、心中満足でいっぱいです。・・・・
出撃前夜記す。
大塚晟夫(昭和20年4月28日沖縄嘉手納沖にて戦死。23歳)
昭和20年4月21日
はっきり言うが俺は好きで死ぬんじゃない。何の心に残るところなく死ぬんじゃない。国の前途が心配でたまらない。いやそれよりも父上・母上、そして君たちの前途が心配だ。皆が俺の死を知って心定まらずお互いくだらない道を踏んでいったならば、いったい俺はどうなるんだろう。
皆が俺の心を察して今まで通り明朗で仲良く生活してくれたら、俺はどんなにうれしいだろう。君たちは3人とも女だ。これからの難行苦行が思いやられる。しかし聡明な君たちは必ずや各自の正しい道を歩んでいくだろう。
俺は君たちの胸の中に生きている。会いたくば我が名を呼びたまえ
昭和20年4月28日
今日は午前6時に起きて、すがすがしい山頂の空気を吸った。朝気の吸い納めである。
今日やることは何もかもやり納めである。・・・
書きたいことがあるようでないようで変だ。どうも死ぬような気がしない。ちょっと旅行に行く軽い気だ、
父上の神経痛も、心配事がなくのんびりした生活をすればよくなるのですから、自愛してください。父上と一杯やりたかったのですがやむを得ません。仏壇で差し向かいでやりましょう。・・・
泣きっぽい母上ですからちょっと心配ですが、泣かないでください。私は笑って死にますよ。
東京はもう桜が散りかけているでしょう。私が散るのに、桜が散らないなんて情けないですものね。・・・
午前11時
これから昼食をとって飛行場へ行く
飛行機の整備でもう書く暇がない
これでおさらばする
乱筆乱文はいつものことながら許しを請う
皆元気で行こう
大東亜戦争の必勝を信じ
君たちの多幸を祈り
今までの不孝をお詫びし
さて俺はにっこり笑って出撃する
今夜は満月だ。沖縄本島の沖合で月見をしながら敵を物色し、おもむろに突っ込む。
勇敢にしかも慎重に死んで見せる
再拝 晟夫(あきお)
イヤーすっかり長くなってしまいました。
「きけわだつみのこえ」をよむとすべてを書き写したくなります。
合掌。