朝の(散歩)雑感

午前3時30分目が覚めた。

もう寝れないので、プライムビデオで、「正体」の続きを見た。数日前1と2を見たが、

どうもいまいちなので、3を飛ばして4を見た。4も途中から飛ばして最後を見た。冤罪がはれて、再審?で無罪判決という決着がついた。真犯人が出てきて、無罪となったようで、どうも極めて安易な終局と思った。

 

数日前に見た「祈りの幕が下りる時」という映画の方が断然良かった。

娘が父親から頼まれて、父親の首を絞めて、その後焼き殺すという話なのだが、そんなことも有りうるかもと思わせられた。また父親の娘を思う心情にも納得させられた。

その父親と娘の、借金苦からの逃避行が、あの映画「砂の器」を思わせて心惹かれた。極めて複雑なミステリ―を理解するのは出来なかったが、そして阿部寛がいまいちあってないような気がしたが、良い映画だった。原作がいいんだろう、きっと。原作を読みたくなった。しばらく小説を読んでない。小説どころか、本そのものを読んでない。

いよいよ脳みその壁が分厚く高くなってきた。

 

まだ暗いが6時前、我慢できなくなって、散歩へ出た。前に不思議な女性にあったコースである。久しぶりだ。出会わないことを願う。

と、ずっと遠くを女性らしき人が歩いてくる。慌てて別な道を進む。追いかけてこられるのではと思って足早になった。曲がり角で振り返ると、反対方向に遠ざかる極小さな人影が見える。ほ!俺はどうも人間相手が得意でない。

 

大通りに出て歩いていくと、真っ黒な人が自転車で通りかかる。中学校の英語助手と思っていたが、中学校はもう通り越している。はて、この先の小学校で教えているのかな。そしたらずいぶん遠いなあ。どこの人だろう。黒さから見ると、アフリカ、しかも南部のアフリカかなあ。よくこんな寒い東北まで来てくれたものだ。どんな経緯で来日したんだろう。今日は恐ろしく寒い。

 

中学校に近くなる。多くの中学生が登校する。挨拶をするとまずほとんどが、挨拶を返してくれる。元気がいいとは言えないけれど。向こうから挨拶してくれる生徒もいる。こちらは、サングラスをかけた老人なのに。

 

これと対照的な一群にであった。10名以上が並んでバスを待っている。「おはようございます」と、4回言ったが、一人として挨拶を返す人がいない。年寄りも若いものもいる。腰が曲がったように見える人も高校生かと思うような人もいる。

 

皆無言である。過半はスマホを見ている。

 

私は通り過ぎて、振り返った。今しがた彼らが待つバスが来た。IHIという表示がある大型バスである。IHIの従業員たちである。

 

暗いなあ。実に暗い。防衛費急増の折、IHIは、多分景気がいいだろうに。もうすぐボーナスだろうに。挨拶ぐらいできるだろうに。しかし、勿論私に怒りはない。

 

散歩の途中で会う人は、こちらがあいさつするとまず100%挨拶をしてくれる。

 

しかし、この沈黙の一群は、暗い。無反応である。大げさに言うと、と殺場に牽かれる家畜のようだ。社畜という言葉が浮かぶ。

 

きっと仕事がきついんだろう。木曜日である。くたびれる時である。明日一日働けば土日である。もう少しだ。

 

私の年金生活は、彼等のような現役の仕送りによって支えられているのだそうだ。

どうもおかしい。

現役時代は、自分が積み立てした分を老後にもらうと思っていた(積み立て方式)。なのに、いつの間にか賦課方式と言って、現役の年金保険料をもらうことになっている。どうしてこうなったのかなあ。年金生活者の激増が主因だろうけどね。

 

一方、日本全体では、2200兆円を超える金融資産があるのだそうだ。その金融資産の内訳は、預貯金が51%、24%が保険・年金等、14%が株式などだそうだ。そして、金融資産の60%以上を65歳以上の人が持つのだそうだ。

 

あるところにはあるのである。

 

 

家に帰りつく。7時20分。家の若旦那(婿)は、既に出社。100人ばかりの下請け企業で働いている。高卒ゆえ下っ端である。月2回が夜勤である。

娘は、また孫娘を、登園準備のことで叱っている。

娘は介護士、孫娘は幼稚園である。朝は、娘が気がたってよく孫を叱る。やむなしかなと思う。現役は大変だ。

 

われら年寄り夫婦は、家事の過半と育児の補助を担っている。娘夫婦が現役で社会に貢献して保険料を払っているので、そして彼らをわれら老夫婦が支えているので、年金をもらってもいいだろう、と思っている。しかも約40年働いてきたのだから。

 

こういうと、働かなかった人や働けなかった人や子供を持たなかった人はもらっちゃいけないの?という声が聞こえそうだ。

 

勿論そんなことはない。どんな人でも幸せに生きる権利がある。高齢になれば、どんな人でも年金をもらう権利がある。

 

親ガチャ・子ガチャ、時代背景、社会背景、生まれつきの体・性格、人との出会い、病気・怪我、運・不運・・・個人を左右することはあまりに多い。

 

そして人間が社会を作ったのは、その社会が総体として助け合い、その構成員一人一人が、どんな人も、幸せに生きるためなんだと思う。

 

自己責任論は、ごくある程度にしか通用しない理屈で、自己責任論を原則にするのは、人間否定である。若しくはおのれの欲望の実現のための利己主義である。

 

あれれ、変な方向に走ったな。まあ雑感とは言えると思う。もう10時近い。畑仕事に出かけよう。