この2日間、ようやく梅雨らしく雨が降りました。水汲みも一休みです。
ところがです。今朝畑に行ってみたら、カボチャが無残に食われていました。3個です。もうそろそろかなと思っていったのですが、やられました。一つは、まだ若いので食いかけにしやがった。
ウルフピー(米国の狼のおしっこ)効き目なかったです。4400円もしたのになあ。
アメリカは頼りになりません(笑)
確かに効能表示には、サル・猪・鹿にはO、ネズミX、ハクビシン・アライグマは△となってました。まあ、嘘はついてません。
でも安保条約はどうかな、米国が核を持つ中国と戦争するなんて思えます?私は日本は、見捨てられると思いますね(笑)安保法制で縋り付いても、ハイさようなら(笑)かもね。日本は中国の敵にならないことが肝要と思うなあ。
話変わって、
すごい演奏とすごい人生のしまい方を見ました。
高橋竹山という津軽三味線の名人です。NHK・E特集の1998年のドギュメンタリーです。
竹山は、2歳で、はしかのため目が不自由になり、17歳から三味線を弾き、歌を歌い、門付けの生活をしたのだそうです。
彼は言います。「金があったら物乞い芸人なんかしない。」
独習で粗削りな彼の演奏は金にならず、やめようかと思ったのだそうですが、津軽民謡の大家成田雲竹に拾われて10余年修行。独自の演奏技法を編み出したのだそうです。
やがて名人とよばれ全国にフアンができます。
番組は、名人時代を描くのではなく、死に直面した竹山を追っていきます。
5年くらい前から喉に違和感を覚え、診察結果は、喉頭がん。声がほとんど出なくなります。
1997年86歳の初春。いよいよだめだと自覚した竹山は、「人前で三味を持って演奏しながら死にたい」と決心し、演奏を始めます。
全盛期に遠く及ばない演奏は「名人の名を汚す」という弟子などの反対もありましたが、竹山は、週一回地元で演奏をします。子供向けイベントの合間でも演奏します。無料出演です。
秋にはさらに病状が悪化します。竹山は、皆の前で、高橋竹山の名を継がせる2代目を披露します。「竹与」という7番目の弟子です。それについては、地元や弟子の間には、批判がありました。
東京の若い女性だからです。でも、竹山は、「津軽三味線だけで生きていこう」という
竹与に自分の名を与えます。
しきたりや伝統にとらわれない竹山の面目や駆除です。
2代目披露の演奏会で、竹山は、新しい演奏をします。薩摩琵琶を聞いて取り入れたいと思ったのだそうです。曲は、韓国の歌「アリラン」。死の寸前でこれだから、すごい。
出待ちの楽屋でロックを聞いていた竹山は、それに合わせて、三味線をならしたこともあったといいます。それを聞いた伊奈かっぺいは、背筋がぞくぞくしたといいます。
最後の演奏は、12月21日。もう三味線を持てません。お孫さんが支えます。体も傾いてきます。それでも弾きます。この気力、この執念。
名人初代高橋竹山、2月18日死亡。
番組の最後は、高橋竹山の代表曲「岩木」が流れる中、女性が手押し車での「田の草取り」の風景で終わります。
三味線が泣いている。
江戸時代の旅行家・菅江真澄の「津軽外ヶ浜奇勝」を連想しました。(本文ではなく歴史書の引用で知りました)そこには飢饉で、「人の肉を喰った人の目は狼のように光る」とか、「死体を踏んで歩く」とかという描写がありました。
今日は、わが相馬でも「やませ」が吹き、22度しかありません。こんな気温が続けば、間違いなく凶作でしょう。
この激しい演奏は、一度だけ見た「弘前ねぶた」の踊りの激しさや太宰治の「津軽」での乳母「たけ」を求める激しさ(太宰その人の激しさも)やこれまた一度だけ見た棟方志功記念館での版画の激しさを連想させます。
厳しい風土で、土地にしがみついて生きてきた人々の叫び・祈りがこもった曲のように
思いました。
手押し車の「田の草取り」、私はやったことがありませんが、この言葉を言う母のニュアンスが耳に残っています。「ひどかった、つらかった」というニュアンス。
番組が、高橋竹山の「岩木」をバックに、(1998年の)女性の「田の草取り」姿で終わるのは、素晴らしい感性と思います。