あの事故からもう?まだ?15年。
現在でも福島県は、あの事故の影響下にある。1Fの立地している双葉・大熊は、町として機能しているとは全く思えない。原発から40キロも離れた私の身近なことで言えば、自然のキノコ・山菜類・タケノコはいまだ出荷停止である。放射線量の高い猪は食えない。
私は、原発事故の集団訴訟の一つ「生業」訴訟の原告の一員である。第一次訴訟は、最高裁で一部勝訟となった。現在は、第二次訴訟で、娘がその原告の一員である。一次で認められなかった国の原発事故の責任を、二次では認めさせようとしている。
1Fでは、毎日数千人が、原発事故の収束に働いている。しかし、880tあるデブリは、まだ0.9グラムしか取り出されていない。取り出してもそれをどう保管するか決まってない。勿論膨大な汚染土・放射性廃棄物の行き先も決まってない。
原発事故は、まだ進行中である。
原発事故を振り返る、と題名を書いたが、実に様々な視点から見ることができる。
前にも紹介したが、私の日記(そのころブログはやってない)を見ると緊迫して当時を思い出す。
3.11
午後2時46分、強烈な地震。家の中無茶苦茶。しかし電気ガス健在。7時ごろから断水。
長女亘理で被災。亘理は、電気・水道不通。東京の次女家に帰れず、友人宅に泊まる
〇〇(近くのいとこ)午後8時帰宅、車流失。地割れあり。相馬で300人不明との情報アリ
3.12
東北海岸部壊滅的打撃。磯部・岩の子・原釜・松川浦・釣り師浜・大戸浜ほぼ全滅
原発事故起きる。炉心融解→冷却装置破壊→〇〇(解読不明)を抜く→水素爆発→被曝という過程
建屋吹っ飛ぶ
3.13
午前岩の子へ自転車で行く。百間橋以東水びたし。車3台が田んぼの中。ノロのにおいが充満している。田の中に大木あり。地盤沈下あり。元の地形に戻ることがあるか?
原釜・松川漁港・磯部漁港は復帰なんて可能なのだろうか
3・14
午前〇〇が来た。おやじと一緒に船で海へ出て免れたとのこと。よく生きていてくれた。しかし、祖父母死亡、母親重傷とのことだ。家も家族も何もかも失ったとのこと。
良く生きていた。よく来てくれた。お昼ごろ亘理から〇〇(婿の母)来る。数日泊まるとのこと。
同じ夕方Y氏来る。「会津へ逃げるかどうか、迷っているともこと」
3.15
朝4時義父が来る。千葉へ逃げるとのこと。義母・孫娘を伴う。原発からの情報は最悪。午前400ミリシーベルト。〇〇(解読できず)で死亡率100%とのこと。ただしこれは、原子炉付近。夕方原町以北放射能安全とのこと。半径20~30キロ圏は、屋内退避とのこと
3.16
朝起きたら妻。「やっぱりだめだ。4号機から白煙でている」今日は自衛隊ヘリ放水失敗。原町や相馬は、4~2マイクロシーベルト。大丈夫だ。大内(叔父叔母)では誰も行っていないとのこと。明日俺が行く
3.17
朝大内へ行こうと思ったら、ばあちゃんが意識不明。救急車で公立病院へ。運が良かった。空いているとのこと。肺炎。ダメかと思ったが恢復。病院に泊まる。O氏パパ秋田へ。O氏は、福島市へ、〇〇一家は宇都宮へ、N氏は仙台の病院へ、義父たちは千葉へ
3.18
記述なし
3.19
母朝からハイ状態。いろいろ言う。支離滅裂なことを言う。交代で面倒を見る。
・・・・(以下略)
恐ろしい経験だった。
家の中は無茶苦茶。親戚知人は、原発事故でどんどん避難していく。原発がどうなっているのか、どうなるのか心配。ご飯はあるがおかずがない。灯油・ガソリンがどうなるか心配。そのうち母親が入院。
日記に記述のない、3.18の朝の病院での思いをよく覚えている。
母の看病でほぼ寝ていない状態。窓の下を見ると見慣れない風景だ。海が眼下にある。
ここは、ほんとは田んぼのはず。余震が来る。母の息はまだ荒い。遠くを見ると原発へ向かうヘリが何かを吊り下げて南へ向かう姿が見える。蜂が飛んでいるように見える
二匹。
原子力発電所が、電気がなくて(???)冷却できずに爆発だと。冷却するのにヘリで海水汲んで、原発の頭から水をかけるだと?なんと原始的な、何やってんだ。
もう日本は終わりだと思った。心底そう思った。
母親は、回復し1週間で退院。運もよかった。病院が入院患者を移動させていて、空きがあったことだ。母は翌年死亡。93歳。
あの頃の暗い闇を思うと、原発なんぞを動かしてはならない、と今も思う。