「桜花」、春が来た!

強風である。
玄関先のマットに、桜の花びらが散らばっている。
目をあげれば、桜の花びらが流れていく。しかし、どどっと、ではない。もうそんなに残ってはいない。
馬陵城跡(福島県相馬市)の桜である。

散る桜残る桜も散る桜

先日NHK教育で、題名は忘れたが、戦時中の特攻兵器「桜花」に関する番組を見た。
これを考えだした軍人が戦後も生き残り、名前を隠して生きてきた。その人生の意味を息子が追うという番組である。

「桜花」、母機(一式陸攻)から切り離されたら、ジェット推進で米艦に体当たりするしかない、人間が操縦する爆弾。
戦果はまったくのO。ほとんどが、この爆弾を抱えた母機もろとも撃ち落とされたのだという。米軍はこれをバカ爆弾と呼んだ。

番組後半、この軍人が高野山で「桜花」戦死者の慰霊碑を訪ねるシーンがある。(息子の目をとおしてだが)
その時、そこで見たのが「散る桜残る桜も散る桜」である。大きな字で書いてあった。

諸行無常の句であろうが、私は、この句に恨みあるいはいいわけを感じる。

この句を特攻隊員が言うなら、俺は死ぬけど、残るお前ももうすぐ死ぬ運命だぞ。
この句を生き残った者が言うなら、俺は生き残って悪かったけど、もうすぐ死ぬから。

こんなことを思いながら、散歩に出た。
「風は物体である」、まず思ったのはこれだ。普段は、「空気のよう」というように存在を感じないが、こう強い風だと空気に巨大な物体を感じる。となると私達は普段から物体を吸っているのである。面白いな、いや当たり前か。

どの時点から、空気に物体を感じるか、それは、やはりそよ風程度からだろう。「そよ風にほほをなでられる」なんて言うからな。

こんな愚にもつかないことを考えながら歩く。
桜は散ったが、実に多くの花々が咲き誇る。実に多くの花が、道端、家の庭、野原、山に。

自然に歌がでる。
勿論「春が来た」である。「♪♪春が来た、春が来た、どこに来た。山に来た、里に来た、野にもきた♪♪」
母が好きだったなあ。死ぬ間際まで聞かせたなあ。

俺は大声で歌う。風に向かって歌う。何の遠慮もない。なにせ、近くにも、遠く見渡す限りにも、人っ子ひとりいないんだから。

今日は風に邪魔されるが、足取りは軽い。心も軽い。

そうなんです。
今日は、今年に入って初めて(約半年ぶりに)下ズボンなしのお散歩なんです。・・・春が来たんです。

「♪♪春が来た、春が来た、どこに来た、山に来た、里に来た、足にきた♪♪」
これが下半身に来た、ではちとまずいかも。もっとも、年中下半身に春が来ている、偽イクメンや○○○満足のお方もいらっしゃいますけれども。

そして、明日、半年ぶりに孫がやってきます。