「母ーオモニー」を読んで/風の中のスタンディング

午後、妻と一緒にいつものスタンディング行った。

風が強く、プラカードは、持っているのが大変だった。初めわれら二人しかいなくて、「少しやったら、やめようか」なんて言ってたら、ほかの人も現れて、最終的には5名になった。写真を撮ったが、メモリーが入っておらず、ブログアップは、出来ない。

今日は、高校生が通った。高校が何かの関係で、早く終わったのだろう。

アベックの男子高校生が「ご苦労様です」と言って通り過ぎていった。私も「ありがとね」と大きい声で答えた。車で通りかかる人も赤信号で止まると、われらのカードを興味深げに見ていく。政治的な意見表明をしている人もいるんだなあ、と思ってくれるだけでもいいんじゃないか。

母ーオモニ」という本を読んだ。姜尚中の本である。感想を書いておく。

(1)紹介文には、「著者初の自伝的小説」とあったが、これは、小説なんだろうか。姜氏の母と彼女に関係する人々の実話なんだろうと思う。ただ姜氏が生まれる前の部分は、母の目で描写しているので、小説といえるのかもしれない。同じように、誰の目で見ているか、誰が語っているかが、この本は統一されてなく、ちと、私には読みにくかった。そういう語り口の小説もあるが、この「小説」は、そういう語り口に成功しているとは思えなかった

(2)「韓国の人たちよ、良かったなあ」
この本では、戦後の熊本市での朝鮮人の生活が描かれる。困窮した生活である。困窮した生活の中でも、助け合いながら、力強く生きている。そして、一家は、廃品回収業で成功する。
そのころには、日本の敗戦直後の朝鮮人集落も消滅する。大阪万博のころ、1970年代初め姜尚中は、ソウルを訪れる。中心部は別だが、そこには、戦後日本の朝鮮人集落のような姿も残っていた。朝鮮戦争、南北分断の歴史が発展を阻害したのだろう。2008姜尚中は、釜山を訪れる。近代都市化した釜山である。日本の高度成長の後を追って、韓国は、高度成長したのである。「韓国、よかったなあ」というのが、私の感想である。

(3)なにか、懐かしい想いがした
敗戦直後の熊本での朝鮮人の生活の描写を読んで、どこか懐かしい気がした。私も体験した貧乏の匂いである。我が家は、父の一家が樺太引揚者である。母は、零細な小作農家の長女である。当然貧乏である。私が生まれて6年間、父は家にいなかった。借金から逃れるためである。姜氏と私は、1950年同じ年の生まれである。姜氏の家にテレビが来たとき、我が家にはなかった。その数年後東京オリンピックの時に、叔父が送ってよこしたものが、我が家の初めてのテレビである。わが家の力では、テレビは買えなかったのだ。他人の家の糞尿を母と一緒にもらって歩いたことを思い出した。勿論畑の肥料にするためである。そんなことも思い出した。もっとも我が家より貧乏な家もあった。少しだけれどね。貧乏だった日本も韓国もよかったなあ。一応食えるようになって。

(4)在日朝鮮人の大変さ
「今日から永野哲夫ばやめて、姜尚中て名前にするばってん、よかね」
「哲夫(姜尚中)、お前が好きな人ならどんな女性(ひと)でもよかっと。それこそ黒でも白でも黄色でも・・・よかっとたい。ばってん、イルポンサラム(日本人)とハングッサラム(韓国人)との間には、これまでにいうに言われんいわれがあったと。若い人たちが、それを引きずって不幸になることがつらかとたい」

上は、大学生の姜尚中の言葉である。下が姜尚中の母の言葉である。母の言葉は、日本人と結婚すると決心した姜尚中とその恋人に対する言葉である。ここに、在日朝鮮人の日本で生きることの大変さの一端が表れていると思う。ここに日韓の歴史が表れている。

私の在日朝鮮人との思い出は、自転車の思い出である。小4のころ、子供たちには自転車が流行っていた。私もほしかったが、買ってもらえなかった。だいぶたって、父が自転車を持ってきた。喜んで乗っていたが、ある時学校に行ったら「〇〇(私)、汚ったねー、お前と遊ばない」と言われた。自転車は、父が朝鮮人の屑屋から買ってきた自転車だったのだ。大人たちの朝鮮人蔑視の風潮が、子供たちにも影響していたのだ。しかし、私は仲間はずれにもならず、相変わらず、このスタンドのない自転車を乗り回した。われらは、ほとんどみな「汚ったねー」恰好をしていたのだ。1950年生まれのわれらは、親とは違い、朝鮮人をなんとも思ってなかったのだ。それは一方では、朝鮮人の被害者意識、つらさに思いをいたすこともなかったのである。日本国による朝鮮の併合なんて歴史も、まったく知らなかったのである。

この本の最後の方にこんな文章がある。
「父と、そして母が、さらにはいつかは兄や私(姜尚中)が永遠の眠りにつく場所。その場所には「永野」の文字が刻まれ、裏に回れば、朱色でくっきりと「姜」と「兎」の名前が浮かびあがってくる、そんな墓石がふさわしい。」

日本と朝鮮(北も含めて)、仲良くやっていけたらいいな。

(5)熊本弁
この「小説」の在日韓国人たちは、熊本弁をしゃべる。懐かしい思いがする。勿論私は東北人で、熊本弁はしゃべれない。懐かしいというのは、石牟礼道子苦海浄土を思い出すからだ。水俣病は、資本の論理(利潤追求第一)で生じたものだ。日本の植民地支配にも、資本の論理が働いている。朝鮮人の貧窮の大きい部分は、日本の「東洋拓殖会社」の土地収奪にある。その会社は、日本の資本と政府の資本で運営されていた。資本の論理が、水俣病と朝鮮の人々の苦痛を生み出したともいえる。

(6)死
この「小説」には、多くのが描かれる。姜の父母・叔父、兄弟、姜の父母の友人、多くの死が語られている。私も死を迎える準備と死の覚悟を作らなければならない。