70年安保とわたし

前のブログで、安保闘争について書いたその続編です。

ただし、題名のように、私の個人的経験でして、役にも立たず面白くもないことをお約束します(笑)70代半ばの老人の思い出話・愚痴話です。だから読まない方がいいと思います。尤も、政治特に安全保障に関心がない人が多いと思いますので、そんなこと言う必要もないですね。

 

さて、始めます。

70年安保について知ったのは、1968年高校三年生の時でした。私の一番嫌いな社会科(特に地理・世界史・日本史が苦手で嫌いでしたー無意味なことを覚える辛さ)の中で、唯一興味を持てそうなのが、政経でした。

 

政経の先生がある時、「大学生の君たちに期待している」と言いました。経緯は忘れましたが、多分彼は、60年安保世代の先生(もっと前か?)で、10年後の安保条約見直しの時(1970年)、君たちの活躍で、安保条約廃棄に期待する、という流れだったのでしょう。

 

しかし私は、1968年の大学入試にすべて失敗し、それ以前に、公務員試験にも失敗していて、行くところがなく、浪人したのでした。

 

浪人中の秋、予備校(仙台)の先生が「君たち、大変ことになったよ。東大と教育大(現筑波大)の入試が中止だ。東大受験生1万人が他大学に押し寄せる。恐ろしく難しくなるよ」と嬉しそうに(笑)言ってました。

 

東大紛争のことは、少しは知ってましたが、まさか全員留年、入試中止になるとは思いませんでした。

 

1969年1月、東大全共闘安田講堂は、陥落しました。

同年3月私は運よく東北大学に合格できました。貧乏でしたので大学寮に入りました。

大学紛争の波が姿を現したのは、入学式でした。全共闘の先輩がゲバ棒を持って乱入し,

入学式が中止となりました。折角入れて気分良くしてるのに、なんだ!と思いました。

 

それでも、大学も寮もまだ平穏でした。

授業で私は、経済学に興味を惹かれました。教授は、マルクス経済学派でした。その学問で、貧乏が恥ずべきことではなく(労働価値説・余剰生産搾取説)、歴史の変遷にも理由がある(生産力上昇が歴史を動かす、労働者が歴史の主体になるべき(唯物史観)))ということを知りました。

資本論」にはまったく歯が立ちませんでしたが、「共産党宣言」やマルクス・エンゲルスの概説書をよみ、社会主義共産主義を目指すべき社会と思いました。

 

また、家永三郎「太平洋戦争」、「きけわだつみの声」「人間の条件」「火垂るの墓」等等を読み、映画「二十四の瞳」等を見て、戦争は絶対ダメだと思いました。戦争否定の憲法を持つ日本が戦争になるのは、戦争肯定の米国との関係を持つからなので、安保条約はやめるべきだと思いました(今もそう思ってます)

 

さて、

大学生活と寮生活が激変したのが、1969年秋でした。9月学生大会で全学ストライキが決まりました。大学管理法反対(大学自治を守れ)・沖縄全面返還・安保廃棄・ベトナム反戦・大学民主化・研究第一主義(東北大の自称アイデンテテイ)批判等の要求を掲げてのことでした。

 

反対論はありませんでした。多くの学生は、9月末の前期試験が嫌だ、という気持ちが大きかったと想像します。少なくとも私がそうでした。

 

尤も、高度成長の成果(GDP世界2位)とその矛盾(公害列島・自然破壊、貧富差・競争激化・低賃金長時間労働等)がハッキリした時代でした。殆どの学生は、社会改革の必要を感じていました。大きな都市では、社会党共産党が支持する革新自治体が続々誕生していた時でした。

 

授業のない数か月、私はバイト・デモ・パチンコ・読書に明け暮れました。寮では毎晩どこかで議論をしてました。私は多くに参加しました。

 

大学内では、自治会執行部=民青系=日本共産党系と新左翼の争いが過激化していきました。新左翼同士の内部抗争(中核・核マル・反帝学評等)もあったと思います。

 

大学構内で一般学生の集会を開いていると、新左翼は投石したり、ゲバ棒で突っ込んできたりしました。

 

そのうち新左翼は、大学各箇所をバリケード封鎖しました。

 

寮では毎日毎晩、封鎖をどうするかの議論がありました。私の寮は、珍しい寮でして、全学部生と院生までいる寮でした。60名前後だったと思います。上級生や院生は大人で就職も控えており穏やかな意見でした、しかしどうするかなんて、結論が出るはずもありませんでした。

 

1970年1月初め、全員留年を目前に大学当局は警官隊導入に踏み切り、新左翼の封鎖する大学を解放しました。1月初旬から3月末まで恐ろしい量のレポート提出に追われました。留年は逃れました。

 

大学は平穏を取り戻しましたが、余波はありました。問題の中心は、やはり10年の期限が切れる安保条約をどうするかでした。大学生の多数は、安保条約廃棄の考えでした。その理由は様々(ベトナム戦争加担反対、米帝国主義打倒、米国の戦争に巻き込まれ戦争になるのは嫌だ、社会主義ソ連や中国側につきたい、米軍駐留は憲法違反等々)でしたが、その方法は、画然と分かれました。そして、そのどちらも無力でしたどちらにも展望がありませんでした。

 

1970年6月23日(安保条約自動延長の夜)、私は一人で、安保条約反対の思いを抱え、大学構内の集会に参加しました。夜でしたが、物すごい数の学生が集まってました。主催は、復権した民青系の自治会執行部でした。演説が延々続きました。

 

私は、集会後当然、仙台市内のデモをするんだろうと思ってましたが、執行部からは、デモはないというアナウンスがありました。

 

そのうち、演説者が切れたのか、「フォークダンスをしよう」という執行部の提案がありました。集会参加者から「バカヤロー、何言ってんだ、祭りじゃないんだぞ」「まじめにやれ、安保どうすんだ」「おまえらやめろー」と怒号がわき、当然ダンスは中止となりました。

 

欲求不満のまま、集会は散会となりました。

 

このように民青系=日本共産党系執行部は、見識不足で、無力でした。警察に排除され、大学・大学生の大半から排除された新左翼は、当時、内ゲバ・暴力行為に走っていたのだと思います。敵は違うだろ!賢く戦え、何やってんだ、バカ。

私は、彼等の真剣さも知っているので、むやみに否定はできません。(私も、仙台市内各大学の合同寮祭のメインイベント、仮装行列の実行委員長として、警察と応対し、警察権力の怖さの一端を知ってます。)

 

新左翼の行動=ヘルメット・ゲバ棒で、暴力独占装置である国家権力を倒せるはずがありません。国民の多くもついてきません。

 

民青系の運動は、・・それは、新左翼よりは、はるかに多くの学生の支持を得てました。しかしその方法は、国会で多数を占めて、安保廃棄法案を通すという事でしょうが、当時総選挙はありません。1969年末やったばかりでした。

 

やったとしても勝てなかったでしょう。あの最も盛り上がった60年安保闘争後の総選挙でも、自民党の大勝利でしたから。

 

国民は、政権を何で選ぶか、それは今も昔も、安全保障政策ではありません。生活に直結することです。物価・賃上げ、景気・税金・就職状況等です。さらに地縁・血縁・社縁・既得権・見かけ・「なんとなく」・「今のままで」で候補者・政党を選びます。

 

安全保障政策上でも、世界第一の米国側に守ってもらうのが安全、米側に着いた方が安心、戸締りは必要という考え人が多かったのでしょう。

 

私は、新左翼ゲバ棒闘争は、暴力を独占している国家(=警察・自衛隊・米軍)に対して、まったくのドン・キホーテ、大学という猶予期間=青春時代のお遊びと思ってました。

 

私は、社会人となり、できれば家庭を持ち、その中で戦後平和主義(当時は私は非武装中立、のち武装中立さらに武装同盟・厳密な専守防衛に考えが変わる,、勿論究極の理想は非武装中立の実現、自民党政権のやってきたことを順に遡上する考え=元に戻す)、戦後民主主義個人主義主権在民・平等・人権=戦後獲得した欧米流民主主義)の実現を目指すべきと考えました。

 

そのよすがとしたのが労働組合でした。労働組合の力で、戦後平和主義・戦後民主主義を求める政党を応援し、国会で多数派を取って、それを実現しようと思いました。具体的には、社会党共産党を応援することでした。

(私の属する労働組合は、政党支持の自由を大原則としてましたが、実際は社会党共産党支持でした。私も社会党共産党支持でした。)

 

では、(私の体験した)30余年の労組運動を通じて、戦後民主主義や戦後平和主義は、維持・発展できたか?

 

自民党の対米従属・日本大安売りの安保政策、己の権力・既得権益維持のための、個人の自由・人権抑圧政策の暴走の、いくらかの歯止めになったとは思うのですが、これは広範な検討が必要な事項です。いつかはしなければならない課題ですが、その能力がありませんし、現在気力がわきません。

 

私個人の実際はどうだったか。

社会人になると、日々の仕事に追われる生活でした。目前の仕事の課題をどうしようかばかりで、社会の動きなんかにあまり目を向ける気持ちも働きませんでした。当然戦後民主主義・平和主義を実現しよう、なんてことは、頭の片隅に追いやられて行きました。理想的に見えた社会主義も、現実のソ連や中国や北朝鮮の実際がわかるにつれ、色あせていきました。

 

私の属した労働組合運動の総括を(恐ろしい言葉-前のブログでもいいましたが、この言葉を恐ろしくした新左翼内ゲバ・殺人は罪深いです)しておきましょう。

 

私が就職した時は、働く人の約3分の1がわが組合に所属してました。(ほかの3分の一は、別組合=政治的発言はせず、給料・待遇闘争のみの組合、残りの3分の一は、組合に不参加)

これが、私の退職した時には、私の組合には、10の1弱しか所属してませんでした。

 

この激減!(近頃米国では労働組合の力が強くなっているとのこと、さすが米国)

 

その理由の一端として、今年6月13日の旧友とのお楽しみ会(第2回)での話しを紹介します。

我ら三人とも、ほぼ最初の数年で労働組合員になりました。私は退職まで組合員でしたが、他の2人は、50代でやめたそうです。

 

やめた理由は、「組合費ばかり取られて何のメリットもない」「月1万だぜ」「あいつが組合の執行部では、ダメだ」「組合は優秀な奴もいるが、組合活動優先で仕事をしないものもいる」などでした。

 

たしかにねえ、組合に入ってる個人的メリットなんてありませんでした。却って、上ににらまれる、出世は出来ない、やることが増える・忙しくなる、本業がおろそかになる、金はかかるというデメリットの方が多かったと思います。また素晴らしい組合員もいましたが、仕事をちゃんとしない組合執行部もいました。

 

自分に関しても言っておきましょう。

私が他人を組合に勧誘したことは、30余年の組合員生活で、たった一人でした。その人は、即入会しましたが、40代でやめました。

 

組合を通じて、戦後平和主義・戦後民主主義を実現するという考えの私には、勧誘がとても大事(勢力を伸ばすため)だと自覚してましたが、私は勧誘が大嫌いでした。矛盾ですね。

 

私は、組合の個人的デメリットを知ってます。ですから安易に人には薦められません。それでも入りたいなら、超大歓迎というスタンスでした。

 

わが組合員は、勧誘が苦手な人が多かった。

その気持ちはおそらく、「俺たちは正しい」「正しいことはいつかは伝わる」「社会の出来事にどうかかわるかなんて、人に言われて行動するなんて変」「勧誘されて動くようではダメだろう」「弱者は団結して権力や資本に対峙するのが当たり前、そんなこと言われなくともわかるはずだ」という基本的考えでした。

 

それは客観的に見れば、ひとりよがり・独善、あるいは、悪い意味のエリート意識(君たち、不勉強だぞ)かもしれません。これでは、広がりがあるはずがありません。

 

 

私には、この傾向が強いと思います。

いやそれ以前に、人に働きかけるのが好きでないんだろうと思います。

 

 

共産党の強い組合の執行部になったことはなく、執行部提案に代議員として、ただ一人で反対したこともありました。

共産党に誘われたこともありましたが、考えも肌合いも合わず断りました。

 

 

まあ、すべては終わったこと。(笑)

 

 

 

ア、それでね(笑)2015年の第三安保闘争(笑)以後、ずっと街頭に立ってます(笑)ハイ。

 

丁度5千字。