この数週間で読んだ本についての感想。
久しぶりの浅田次郎。
帯に「兵諫(へいかん)とは、兵をあげてでも主の過ちを諫(いさ)めること」とある。なんのことだと、興味を持って図書館から借りてきた。
舞台は1936年(昭和11年)。
のっけから、ニューヨークの若い米国人新聞記者と中国で殉職した米国人記者の登場、次に現役軍人(諜報部員)による死刑囚の軍人(2・26事件の青年将校)との面談場面、と、一体どういう関係?何の話?と、興味が惹かれる。
この小説、実在の蒋介石・張学良・永田鉄山・石原莞爾・周恩来等々を登場させ、話を進める。さすがに、浅田次郎はうまいなあ。
ただ、事件の話し手となる米国人の若い記者、朝日新聞記者、諜報部員の3人が薄っぺらい感じがする。また、永田鉄山・石原莞爾は、本筋とあまり関係ないと思われる。
テーマは、時代を画する二つのクーデター事件。
浅田は、日本の2・26事件と中国で起きた西安事件が、同じ1936年(昭和11年)、しかも同じクーデター事件(あるいは兵諫)ということに着目して、話を作っている。この着目点がいい。
2・26事件は、皆さんご存知と思われるので、西安事件だけちょっとおさらい。
西安事件は、中華民国軍司令官蒋介石に中国共産党討伐を命じられた張学良が、討伐に不熱心で、それを督促に来た蒋介石を軟禁した事件。張学良は、蒋介石に共産党討伐をやめるようせまる。共産党周恩来の仲介もあって、結局蒋介石は、それを受け入れた。中国が、第二次国共合作(抗日民族統一戦線)結成へと舵を切った歴史を画する大事件。
張学良は、上官蒋介石への謀反を認め、自分から軍法会議に出向き禁固刑を受けた。以後、蒋介石の監視下に置かれた。蒋介石の死後ハワイに住み同地で2001年死亡。
小説は、陳一豆という架空の人物(張学良の護衛兵、元床屋)を設定し、張学良の身代わりとなって、謀反の責任を負い死刑を望み、望みどうりになるという筋立てである。
この陳一豆の軍法会議での態度と弁論が、とても素晴らしく感動的である。この小説の一大ハイライトである。浅田の真骨頂。いよー、浅田節。
映画にしたら、きっといい場面がつくれる。チャップリン「独裁者」の最後の演説場面のようになるかも。浅田さんどうですか。映画にしてみませんか。
思えば、2・26事件の青年将校たちの「兵諫」は、天皇の逆鱗に触れて失敗した。西安事件の張学良の「兵諫」は成功し、蒋介石を翻意させ、その翌年起こった日中戦争を結局中国の勝利に導いたと言える。実に面白い。
歴史はどう転ぶかわからない。張学良が蒋介石の言いて共産党を討伐したら、共産党は全滅した可能性が高い。毛沢東は、この時監禁された蒋介石を殺すチャンスと考えた。それを何らかの形で実行したら、また別な展開だったろう。もしそうなれば、中国はさらに混乱し、日本を中心とする列強による対立と中国分割が進んだかもしれない。
小説に描かれた周恩来と張学良の会談も実に感動的である。張学良と蒋介石の入魂の会談も興味深い。勿論、それらは、作者の想像でしかないが、実際そんな感じだったのでは、と思わせる作家の力量である。
周恩来は、仲介者として極めて有能で、歴史的展望を見る目は確かだったのではないか。
彼は、日本国総理大臣田中角栄と結んだ日中共同声明(日中国交回復)の中国側代表である。1972年のことである。
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〇この本は、日刊ゲンダイに書き綴ったものから筆者が選んだ提言だそうである。
提言のまとめは、「老人とは階級であり、対立するもので、他の階級におぶさって生きようというのは甘い、可能な限り自立し相互扶助すべき。立て、老いたるものよ」(あとがきより)
→まあ、そうだろうな。しかし、「言うは易し行うは難し」である
〇印象に残った言葉
「長生きは決してめでたい事ではない。実は恐ろしい世界なのだ」
「明恵はきれいな顔であったが、仏道修行の妨げになると聞いて顔を傷つけた」
「迷信は、分からないことを分かったように説明する」
「バブル崩壊後この国を覆う気分は鬱の空気」
「人はおのずから他人の苦しみに共感する。それが続くと人の心もなえる。これを共感疲労という。心優しい人ほど、苦しむ」
「私が言う養生は、自然に老いるための工夫」
「キリスト教は青年の宗教、仏教は老年の宗教」(なるほど、と思った)
→こんなところだが、大きなインパクトがある本ではなかった。凡書と感じた。
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「白樫の樹の下で」(青山文平、文芸春秋、2011年)
剣術を中心とした時代小説。貧乏に育った3人の友人たちの悲劇を描く。3人は同じ道場で剣術の修練に励み、それぞれ高度な技を身に着ける。これに恋と辻斬りの話が絡む。
恋とは、3人のうちの一人の妹に、ほかの二人が同時に恋をするという構図である。最後は、この4人のうち、生き残ったのはただ一人という悲劇である。ミステリーの趣がある。まあ、普通の面白さであった。
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「風の果て」(藤沢周平、文春文庫、1988年)
低い身分から筆頭家老に上り詰めた主人公(桑山又左衛門)に「果たし状」が届く。若いころの親友(野瀬市之丞)からである。えー、どうしてと興味を持つ。
話は、現在と過去を交互に描く。過去は主人公の思い出と客観的描写の両方である。
同じ剣術道場に通う5人(又左衛門、市之丞、杉山忠兵衛、寺田一蔵、三矢庄六)は、親友どうし。しかし、出自と個性が違う。一人は、現在権勢から離れているが、名門の長男坊(杉山忠兵衛)。他の主人公を含む4人は、次男以下で、どこかの婿にならないと一生部屋住み(その家の厄介者、冷や飯食い)。
主人公を含む3人は婿入り作戦成功、一人は一生独身を続ける(市之丞)。
この親友5人組も大人になるともう親友ではいられない。それぞれの人生と家を背負って生きる。その生きる過程で激しくぶつかり合う。
この独身男(市之丞)が、親友の一人(寺田一蔵)を、上意討ちする。一方名門出の長男坊(杉山忠兵衛)と主人公(又左衛門)は、激しい権力争いをし、主人公が勝つ。名門を継いだ長男坊(杉山忠兵衛)を逼塞させる。
極め付きは、小説の最後。独身男と主人公の家老の決闘である。
「白樫の樹の下で」と似ている。若いころの友人たちが、大人になって対立し、運命が変転するという点で似ている。しかし、藤沢周平の方が俺には断然面白いな。人生の重みが、藤沢の方に感じられる。
まあ、俺はもともと、藤沢周平のファンだからな。好みによるだろう。
市之丞を破った又左衛門が、一番身分が低い貧乏生活の庄六をおとなう場面がいい。
「庄六、俺は貴様がうらやましい。執政などになるものだから、友達とも斬り合わねばならぬ」という又左衛門に対して、
庄六「そんなことは覚悟の上じゃないか。情におぼれては家老は務まるまい。普請組務めは時に人夫交じって、川に入って掛け矢をふるうこともある。命がけの仕事だ。うらやましいだと、馬鹿を言ってもらっては困る」
この小説、人生の有為転変と、権力の魔力と虚しさを十分に描いている。そして藩が借金漬けからどのようにしても脱却できないことも。
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この著者の「春を背負って」がとっても面白かったので、同じ山岳ものを読んだが、
「春を背負って」と同じ発想と感じ、途中で放棄した。まあ、まじめに読めば面白いだろうとは思う。「春を背負って」と違う世界があったのかもしれない。
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かつてなら、つまらぬもの、途中挫折のものについては触れなかった。ただ、人生の残り時間が少ないことを意識すると、忘れるのはもったいない気がして、備忘のため、書いておく。
ここまで長文を読んでいただいた方に、感謝いたします。ありがとうございました。