雨が降り、暇でブログを書くー安保政策・集団安全保障について

今日から3日間仕事は休み。明後日は法事でつぶれるが、今日と明日は暇である。私の趣味は、畑と散歩と読書である。今雨が降っている。畑と散歩は出来ない。読書は、近頃しすぎたのでしたくない。

そこで、ブログを書く。昨晩は、いろんな安保政策の損得を並べて考えてみた。そこでは自分の意見を言ってなかったので今言う。
損得から考えて、安部の安保政策は損ばかり、最悪の政策である。安保条約は、沖縄差別存続、米への従属感、米の戦争に巻き込まれる危険があるのでやめるべきと思う。軍事抑止力の減少は、平和的手段での抑止力増加で補う。平和的手段による抑止力は、非武装中立がいい。

そこで私の結論=(1)安保条約廃棄、現状では自衛隊存続、目標を非武装中立とする。
(2)憲法条文はそのまま(なんせ、いかなる解釈でも可能と言う言葉のマジックの日本故)それが嫌なら、9条1・2項存続、3項に「2項を最終目標とするが専守防衛のための自衛戦力を当分の間置く」という趣旨の項目を加える
(3)平和的手段による抑止力=中韓と仲良くする、国際司法裁判所等による解決の宣言、その他いっぱい方法はある(別ブログ)。他国へも軍備廃絶の働き掛けと同時に常設国連軍創設の働きかけ。

またおんなじこと言っちゃった。

上で常設国連軍のことを言ったので、集団安全保障について自分の考えを言う。

100年前の1914年の6月28日(昨日)は、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件があった時である。オーストリア皇太子がセルビア人青年に殺害され、オーストリアセルビアに強硬な要求を突き付け、同国間で戦争になった。それが、世界大戦になったのは、同盟関係からである。つまり、ドイツ(オーストリアの味方)や英仏露(セルビア側)が集団的自衛権を行使したからである。軍事抑止力理論の破たんである。
どの国も世界戦争なんて望んでなかったのに世界戦争になったのは、軍事同盟関係=集団的自衛権行使があったからである。これは、日米安保賛成や集団的自衛権行使容認の考えの人は覚えておいてほしい。私が安保廃棄を言う理由の一つでもある。

そこで軍事同盟=集団的自衛権行使=勢力均衡方式はまずいと言うことで作ったのが、
集団安全保障方式=国際連盟である。これは全ての国で一つの集団をつくって(国際連盟)、ルールを作り=侵略だめよなど、ルール違反の国は他のすべての国で制裁すると言うやり方である。
これは、人類史にとって画期的な安全保障方式であると思う。防衛のため自国を強くする=武器・軍備強化→他国も同様→緊張高まる→戦争、自国のみでは弱い→仲間をつくる、敵の敵は味方等々、この結果戦争拡大。これが人類の戦争の歴史でなかったか。
これを否定する集団安全保障は、人類の安全保障のバージョンアップであると思う。最後の解決策と思う。


国際連合も同じ考えの組織である。しかし、最初から矛盾があった。東西冷戦である。東西冷戦は、集団的自衛権=軍事同盟の世界である。ソ連の味方、アメリカの味方がそれぞれ同盟を作って対立した。日米安保条約もそのひとつである。

集団的自衛権は、国連の集団安全保障機能を否定する。私は、上述のようにこの二つは対立する概念であり、集団安全保障方式が正しい安全保障と考える。

日本国憲法は、非武装中立と言う安全保障政策と同時に集団安全保障と言う安全保障政策
を想定していたと思う。上述のごとく集団安全保障は、機能しなかったが。

しかし、人類の理想は、全国家の非武装と常設国連軍=集団安全保障方式である。日本はこの理想の国家・世界を目指すべきと思う。憲法はそれを指示している。多分当時の多くの日本国民や世界のかなりの人々がそう思っていたはずだ。故に憲法9条は世界の理想をさし示すものである。
まずは、旧式の集団的自衛権である日米安保条約を廃棄すべきである。平和的手段での抑止力向上と全国家の軍備縮小を目指すべきである。国家の中枢部や軍部はこれに反対するかもしれぬが、諸国民には賛成する人も多いだろう。諸国民のインターナショナルを考えなければならない。第一次世界大戦は、ナショナリズムとインターナショナルの戦いでナショナリズムが勝ったと言われる。そうなってはいけない。

安部自民党の安保政策は、世界人類の平和への努力と逆行する。かつきわめて損する馬鹿げた政策であると思う。