利尻・礼文島旅行

東急観光のツアーで、稚内礼文島利尻島3泊4日の旅行に行ってきました。

私は、乗り物と利尻富士に興味があり、妻は、海鮮料理と離島の花々に惹かれました。私は、函館新幹線・格安チャーター機(函館→稚内)・フェリー(稚内礼文→利尻→稚内)にのってみたいと思ったのです。

運が良かったと言えます。4日間とも利尻富士を見ることが出来ました。

礼文島へ向かうフェリーから見た利尻富士


だんだん近づいてきました


小学校と利尻富士です。礼文島の北のカナリアパークからの遠望です。この小学校は、吉永小百合主演「北のカナリア」のため、一から作られた小学校だそうです。


桃岩:桃のように見える岩近くに猫岩もありました。(礼文島


澄海(スカイ)岬礼文島私が、この旅行で一番の絶景と思ったところです。


白い恋人の丘から見た利尻富士利尻島) ツアー仲間のおばあさん2名。4名のグループでした。
ツアーは、60代から70代の夫婦ペアーが多かったと思います。他には、男性1名、女性2名と、女性4名。総勢29名でした。彼らの観光・消費行動も日本の経済を支えます。お年を召した人達ですので、乗り物の中の過ごし方も大きく違ってきます。

帰りのフェリーの中です。分かりにくい写真ですが、皆さん、おしゃべり、パンフレットや本読み、居眠りで過ごされています。左の男性は、文庫本読書中です。

都会の電車内の風景と違います。そうです。スマホに熱中と言う人がいません。所得や生活格差だけじゃなく、世代間の違いも大きいですね。もっとも、旅先では、現実につながっていたくないと言うことで、スマホ無視かもしれません。

改めて思ったことは、新幹線の早さです。仙台・函館間が2時間半なんです。早い。20代前半、函館から青函連絡船、青森からは、特急で帰ってきたことを思い出しました。一日がかりだったように思います。

新幹線がこれだけ早いと、リニアモーターカーは、不要なんじゃないかなと思います。早さを競うのは、新幹線まででいいんじゃないかと思いました。少ない資金や資源や技術を別な方面に使うべきと思いました。新幹線だって、景色を見ると言う旅情は、まったくないのですので。

しかし、仙台・相馬間が何と2時間弱なんですよ。仙台・亘理が常磐線普通電車。亘理・相馬間が代行バスです。あの津波で、線路をやられたせいです。

相馬・亘理間JR代行バス

印象に残ったものを簡単に紹介します。
一日目の宗谷岬

平和の碑宗谷岬で米潜水艦により撃沈された日本人犠牲者と米潜水艦(これも撃沈されたらしい)の慰霊碑

ソ連軍により撃墜された大韓航空機の犠牲者慰霊碑

二日目の稚内公園


「氷雪の門」
樺太でなくなった日本人の慰霊碑。本郷新の女性像の彫刻が強烈でした。近くには、昭和20年8月20日皆さんこれが最後です。さようならさようなら」という最後の電信を発して自死した、真岡郵便局の9人の乙女たちの慰霊碑もありました。戦争の犠牲者です。

私の祖父一家も樺太引揚者です。勿論父も引揚者です。全ての財産を失って戦後引き揚げてきたわけですので、大変な生活でした。母は、零細な小作人の長女の生まれで、これまた貧乏でした。貧乏な二人が結婚して生まれたのが私でした。私の家族も歴史を刻んでいます。


利尻島のペシ岬のねもとにあった会津藩士の墓19世紀初頭ロシアが北方に出没するのに対抗して幕府は会津藩に警備を命じました。
寒さに堪えかねてか、遠いこの地で命を失った会津人の墓。本家の江戸幕府に忠節をつくした会津藩です。この50数年後、会津藩は、京都守護職を引き受けて藩崩壊の悲劇に見舞われます。


会津藩士の墓へ昇る道のわきの狭いところにあった小さい畑。利尻島には、田がない。畑もほとんど見なかった。礼文島でも利尻島でも食事は殆どが魚でした。野菜がごくごく少ない。当たり前のことですが、この島では、新鮮な野菜こそが贅沢な食事なんだろうと思いました。


稚内で見たコンブ漁。石を敷き詰めたところに約半日昆布を干すそうです.稚内でとれても礼文島で取れても、利尻昆布と言います。利尻昆布の利尻とは、場所じゃなくて昆布の種類のようです。(未確認)若い人が多く働いていると思ったら、アルバイトだそうです。稚内では、沖縄のガイドさんが来ているのだそうです。稚内と沖縄で忙しい時期が違い、融通し合うのだそうです。そして、沖縄のガイドさんが地元の漁師と結婚するケースも結構あると聞きました。そう言えば、北海道の昆布があればこそ、沖縄の料理があるという事をどこかで読んだ記憶があります。二泊目の礼文島のお宿の手伝いの人は、奈良県と栃木県の人でした。


最後にレブンアツモリソウ。自然のアツモリソウは、既に終わってました。野草はいっぱい紹介されたのですが、さっぱりおぼえませんでした。写真は、礼文島の植物園でのレブンアツモリソウ。