スタンデイング/「サイパンの悲劇」ーNHK教育特集(8月26日放映)

秋晴れの中、南相馬のスタンデイングに行ってきました。私を含めて7名でした。

うーん、年寄部隊ですねえ。やむを得ません。

一番右側の女性は、近頃参加した人です。「憲法9条を世界に」「軍拡やめて外交を」というプラカード持ってました。「一番多い時23人もいたんですよ」、というと驚いてました。あの2015年安保法が成立したために、「敵基地攻撃能力を持ちたい」とか、「台湾有事は日本有事」とか、「防衛費をGDPの2%に」とか普通に言うようになりました。元の専守防衛に戻しましょう。立民は、安保法反対のはず。自公維新国民に追随しないでほしい。はっきり旗(例えば専守防衛)を立ててほしい。

 

経済成長がおぼつかない日本、少子高齢化日本(兵士になる若い人いるの?)、政府や自治体の借金うなぎ上りの日本です。借金でやってるんです、今。軍拡なんて出来ません。

 

・・・

NHK教育の特集を見ました。サイパンについては、私はバンザイクリフでの女性の飛び降り自殺くらいしか知りませんでした。この番組では、日本人のみならず先住民

の「戦争の惨禍」の貴重な証言を集めていました。21世紀を生きる我々に貴重な体験と思い、私なりにまとめておきます。

 

 まずは、30年近くサイパンテニアンの太平洋戦争時の悲劇を取材してきたNHK太田直子ディレクターに敬意を表します。また太田直子さんのナレーションも、悲惨なことを分かりやすく平静に伝えていて聞きやすかった。今後も取材してしっかり後世に残して下さい。実に貴重な証言を集めてくださりありがとうございます。

 

(1)証言の背景

アメリカ軍は、日本の絶対国防圏の一角サイパンテニアンを落として、日本本土を空襲できる基地を造ろうとした。1944年6月15日米軍12万人サイパンに上陸、防衛する日本軍は4万人体制。海岸の防衛線はすぐに突破され、圧倒される。7月7日日本軍は、「生きて俘虜の辱めを受けず」という命令を出し、最後の攻撃を敢行。一般日本人2万人と先住民が避難する。

 

(2)日本人の証言(ただし、証言は1990年代~現代)

〇高嶋和夫 当時15歳。家族11人を失う。

避難の最後に、長女と次女(姉たち)が来て、「お前だけ逃げろ、どこどこに日本軍がいる、そこへ行け」と言われた。「母に挨拶してから」というと、彼女たちは、「母の命令だ、下の妹たちがいるので抑えるのが苦しい、お前だけ逃げろと母は言っている」という。和夫が逃げた後、母と姉2人、妹弟6人が海に身を投げて死んだ。

 

〇岸悦子 当時13歳。

洞窟に隠れていたが、砲弾が直撃した。手を伸ばしたところに父親の頭があった。「父ちゃん死んでいる」と言った。父親のそばでは、乳飲み子が、母親の乳房を含んでいる。しかし、見るとその母親の首がない。肩に母親の髪がかかっていた。おお、いやだ。今も思い出すと眠れなくなる。

 

〇小谷津アサヨ

洞窟に逃げていた。3家族ほどいた。米軍のブルドーザーがうなりをあげていた。誰かが言った。「捕まれば、男はこき使われ、女はブルドーザーでひき殺される。青酸カリを飲んで死のう」という事で、一升瓶に溶かして回し飲みをした。弟と一緒に飲んだ。

弟は死んだが、私は生き返った。妹は剃刀で首を切って死んだ。父は喉に大きな穴をあけて食べたものがみんなそこから出ていた。若い母親は、「日本の親にこの子を見せたかった」と言いながら、乳首に青酸カリを塗って、自分も青酸カリを飲んで死んだ。

 

日本兵が合流し、指図し始めた。子供を縛っとけ、泣くと米軍に見つかるという。そして母親に早くいけ、と厳しく命令した。母親が行ったあと、日本兵は子供を撃ち殺した。私が捕まって収容所に行った時、その母親がいた。

 

 

〇山内武夫(元日本軍兵士)

洞窟に逃げたらそこに兵7、8人、若い母親10人ばかりいた。皆赤ん坊がいる。下士官が威張っていた。下士官は、泣く赤ん坊たちを見て、「泣かすな、殺せ」と言った。ひとりの母親が、「出ていくよ。弾に当たって死ねばいいんでしょう」と精一杯の皮肉を言って出ていった。他の母親たちは、赤ん坊の首を絞めたり、できない人は兵隊が殺したりした。

 

〇匿名の女性(名前と顔はTVには出ない)

おじさんが甥っ子を連れていた。4・5歳くらいの子。その子は「おじさんいい子でいるからしないで」という。叔父が甥っ子の首を絞めている。

・・・ばらくすると息を吹き返した。「おじさんいい子になるからしないで」と言っていた。おじさんは、その子を連れてどこかへ連れて行った。ひとりで帰ってきた。

 

〇宮城良夫

米軍も、女性子供ばかりの集団を機関銃で一斉射撃した。私の母親は、目をつぶって口から泡を吹いていた。けがした弟と米軍の病院へ行った。そこの米軍医師が、死んだ日本兵に槍を突き刺していた。

 

〇菅野栄子 当時6歳

島の北部のカラベラ洞窟に一家7人で逃げた。この洞窟だよ。300人くらいいた。皆もうおしまいという事で、小さい子供の足をつかんで頭を岩にぶつけるんだよ。怖かった。この辺に首が飛んだり手足がぶら下がっていたりしてたよ。内臓も見えたよ。私達は別な所へ逃げることにした。でも弱り切った生後6カ月の幸江は、残してきた。ああ・・幸江ちゃーん。私達ばかり逃げてごめんね。幸江ちゃーん。お父さんお母さんも死んだんで、天国であってるかーい。

 

ガイドの○○(チャモロ人=先住民)さんに向かって

ごめんなさいね。私たち日本人がいなけりゃ戦争に巻き込まれることなんてなかったのに。ごめんなさいね。

 

バンザイクリフの慰霊碑の前で

海も空も彼ら(原住民:チャモロ・カロリニアン合計4000名が暮らしていた)のものなのに、日本人のお墓にしちゃって。彼等は、ここを亡霊岬っていうのよ。観光で仕方ないけど、時季が来たら撤去すべきだよ。ここ他人(ひと)の島でしょ。

  

〇松崎寿恵子

皆がドンニーへ逃げていく時、私は危険と思って別な方向へ逃げた。母親から聞いた関東大震災の記憶があった。皆が集まるところへ行くと、人間が人間でなくなる。病人は後回し、みたいになるという母から聞いた記憶があった。

私は当時初めての子(学)を授かっていた。泣き声を抑えるため手で口を押えた。将校に命を狙われるから。逃げてがけまで来て「もう駄目、親子で死のう」と思って学を持ち上げた時、私の足首がつかまれた。振り返るとおばあさんがつかんでた。おばあさんは、木の根っこに座ってた。「そんなことはやめなさい。私は怪我してもう歩けない。私の代わりにその子を死なせないで」と言われた。思い直した。でもそのおばあさんを助けることが出来ないんですよ。

 

捕虜収容所の時、学は食べるものがなくて衰弱して、目を閉じないんですよ。バカーと開いて。怖いんですよ。そしたら米兵が学の異変に気付いて、軍医のとこに連れて行って。軍医は学の腕に絆創膏を張ってその上から注射を打ってくれた。一日に8回も打ってくれた。アメリカってすごいと思った。有難くて涙が出た。

 

今年NHK太田直子は、松崎寿栄子の息子学(79歳)に、この証言を見せつつ、インタビューした。

学「私には何も語らず母はなくなった(2013年・93歳で死去)私達に、泣きながらしゃべることはなかった。松の根っこのおばあさんの話も初めて聞いた。おふくろが化粧してイヤリングを付けているのは初めて見た。おふくろは、こんな話を絶対残したいと思ったのだろう。もう二度とこんなことは起こってほしくないという気持ちでしゃべったのだろう。」

 

(3)原住民(チャモロ・カロリニアン)の証言

〇アントニオ・ブランコ(チャモロ

私達は国のない民族だ。スペインがくればスペインさん、ドイツがくればジャーマン

日本がくればジャパニーズ。

○○先生に、日本人一等人、朝鮮人二等人、サイパン人3等人と言われた。お前らは野蛮人と言われた。

逃げる途中、日本兵に銃を向けられ「とまれ」と言われた。父が日本語で私たちはチャモロと言ったので助かった。

米軍は、先住民にも銃を撃った。

 

〇ホリモン・サラス

私達一家は、牛を連れて避難していた。牛には祖母がのっていた。突然日本兵がやってきて「牛から降りろ、牛を殺して喰う」という。どうしようもなかった。うしは取り上げられた。

 

〇ルイス・カマチョ

バナナ・パパイヤの農園を経営していた。1944年春、日本の軍人が来て、この農園は日本のものだ。バナナも何も取ってはいけない、と言われた。

ガラパンの町の原住民は、家を出ろと言われ追い立てられた。その家は兵士たちの宿舎になった。

 

〇デビッド・サブラン 当時9歳

本願寺というお寺に行って毎日2時間掃除をした。先生に米国人は人殺しと嘘を教わった。

姉がオルガンを弾いてたら、憲兵がやってきて、オルガンを壊した。通信機器が入っていると思ったらしい。父はその後2カ月間拘留された。

 

 

*サイパンの原住民は、2004年、戦争体験の本を出版したそうです。TVで、少し紹介されてました。

戦時中はコメの支給が止められており、小さい子たちが飢えて死んだそうです。

米軍に手りゅう弾を投げられ、母の子宮から赤ん坊の足が飛び出し、バタバタしていた、なんてことも紹介されました。

原住民4000人中、933名が死亡した、とのことです。

 

サイパンでは、日本の委任統治下、南洋興発という会社ができ、東北や沖縄・朝鮮から移民を募り、サトウキビなどの栽培を行ったのだそうです。そして現地人を圧迫し、結局戦争に巻き込んだわけです。1994年に太田が初めて取材したころ日本語をしゃべる先住民がいて、その日本語にびっくりです。「九段坂の上に靖国神社があって、一つ、・・・・」なんて言ってました。いわゆる皇民化教育の成果ですね。

 

 

それは、1895年以降の台湾や1910年の韓国併合後の朝鮮、1932年の満州国建国後の満州と同じ構図です。

 

 

住民を守るべき日本軍によるサイパン住民への圧迫や子供殺害強要・集団自決強要は、約1年後、沖縄でより大規模に行われました。

 

 

日本政府・軍部・マスコミが、サイパンの惨劇を、日本軍だけでなく民間人も攻撃に参加して玉砕したという美談(「玉砕の島サイパン」)に作り上げたことによって、沖縄での惨劇をさらに大規模に起こすことになりました。