「蒼海(うみ)よ眠れ」の第4巻は、1~3巻と雰囲気が違う。
まず初めに、「1984年夏」という題で、澤地の「日本軍による捕虜虐待に関する資料発掘」についての批判と澤地の批判に対する反論、さらに再批判、澤地に対する支持論が紹介される。(サンデー毎日1984年8月12日号「1984年夏」)
澤地は、同年1月から4月まで、サンデー毎日に捕虜虐待に関する記事を連載していた。また、共同通信社関係の新聞が、澤地の資料発掘を掲載したことに対する激しい反応である。
これについては、最後に触れる。
まずは、澤地の1月から4月の連載記事の部分を紹介する
第4巻は、第12章だけである。この章は、澤地も予想もしてなかった展開となる。
結局澤地は、日本側の戦争犯罪を明らかにし、公表することになった。
第一航空艦隊(以下、一航艦と略す。南雲中将指揮下の空母部隊)が、ミッドウエー海戦で、捕虜になった米側搭乗員を処刑した事実を明らかにし、それを公表したのである。騒ぎになるのも無理はない。
澤地の材料は、①日本側の公式記録である一航艦の戦闘詳報、②米国・国立公文書館に所蔵されていた、戦犯参考人の陳述調書、③日本人の個人著書、④日米個人へのインタビューである。
一航艦の戦闘詳報には、
②その捕虜軍人の階級・氏名・出生地・出発地・米軍部隊の陣容・搭乗機・戦闘経過等の詳細な尋問内容が記載してあり、
③死亡については、巻雲の捕虜2名については、語らず、嵐の捕虜については、「6月6日死亡水葬に付す」、とのみある。
米軍は占領後、この一航艦戦闘詳報を手に入れ、初めて「捕虜になった後死亡した米兵が3名いる」と知り、事実の調査に乗りだす。
それが、膨大な「戦犯参考人の陳述調書」として残された。(「巻雲」の場合、尋問対象者は、生存者70数名のうち27名。ただし、澤地は、もっと他に尋問されたものがおり、残す価値あるものが27名分と推測している。)
澤地は、この「戦犯参考人の陳述調書」を1984年(昭和59年)1月、米国公立公文書館で発見、訳しつつまとめ、処刑の真相に迫り、それを雑誌「サンデー毎日」に掲載していった。
掲載は、1984年1月1日号から4月15日号である。初め澤地は、調書の存在を知らずに書いていた。(陳述調書は、「巻雲」関連676頁。「嵐」関連759頁)
澤地が、米軍の資料で「米軍の捕虜がおり、一人も生還しなかった」のを知ったのは、1981年秋。その死の実態を知りたいと思い、1983年から、米軍遺族に話を聞くうち、詳細な陳述調書が残っていることを発見した。澤地にも、処刑の事実は驚愕であったろう。
澤地の言うように、残された尋問調書で、処刑の具体的真相はわからない。
どの様にして処刑したか、について「巻雲」乗員の証言は、「生きていながら2名とも、足に海水を入れた石油缶を括り付け、海中へ投げ込んだ」という事で、ほぼ共通している。
誰が実行したかは、はっきりしない。証言がばらばらである。自分がやったというものがいないのは勿論、不明という証言や、○○と聞いているという伝聞が多い。
また、誰が命令したかは、南雲一航艦指令長官、駆逐艦隊司令長官、艦長、様々である。その命令系統も、証言が様々で、確定できていない。米国側は、山本五十六司令長官にも触れているが、外している。
証言者の多くは、命令者に死者をあげるケースが多い。「巻雲」も「嵐」もその後の戦闘で沈没し、生存者は少ない。山本も南雲も駆逐艦隊司令長官も艦長も戦死している。
結局、米側は、一人として訴追してない。
澤地は、言う。日本軍は、すべて天皇の命令で動くのであり、天皇を免責した以上、軍人を罪に問うのはおかしいのではないか、しかし現実に戦争犯罪で処刑されたものがいるのは、公正さにかける、と。
一方、澤地は、命令と言えども、捕虜虐待を行えば罪に問える法制になっていたとも言っている。処刑せよと命令されても、捕虜処刑は国際法に反するとして拒否する、それは命令絶対という軍隊では難しい。それでも拒否すべきか、難しい問題だ。
「嵐」乗員の証言は、さらに極端である。処刑の方法が三通り出てきた。銃殺、斬殺、撲殺の三つである。
しかし、3名が処刑されたことは、これらの証言で確定できる。
この尋問の中で、さらに多くの捕虜を処刑したのではないかと推測せざるを得ない証言がかなり出てくる。
空母赤城や駆逐艦萩にも捕虜がいた、という証言がある。日米両方の兵士が、浮遊物につかまって救助されるまで、一緒にいたという証言もある。
米側搭乗員の未帰還者は、208名。初め戦死の確認がなされず行方不明とされ、あとで戦死とされたものは、186名である。行方不明と判定された兵士について、、3名以外は捕虜になってない、とは考えにくい。一方、生きて帰ったものは一人もいない。
澤田は、捕虜虐殺の新発見をした。日米両国の公式記録に載っていないケースである。
発見の経過はこうである。
19 82年12月28日、澤地は、「初め行方不明のち戦死」と確定された、ジョン・C・ロウ少尉の遺族を、東京の日本橋のG社に尋ねた。その話し合いの中で、ロウ少尉が、潜水艦巻雲で、処刑されたことを知った。澤地は、動揺し、巻雲が潜水艦でなく駆逐艦という訂正もできなかった。
処刑の事実はどのようにして分かったか。ロウ少尉の母親が米海軍に執拗に、息子の死にざまを聞いた結果、海軍から「日本軍により処刑された」という返事があったのだ。
米国の公式の記録にない捕虜の処刑が、米国によって明らかにされていたのである。不思議な話である。
澤地は、1983年10月9日、イリノイ州に、ロウ少尉の妹を訪ねた。母親はすでに死亡している。処刑による死という米海軍からの公式通知は失われていた。母親が息子の処刑を聞いて錯乱し、書類を始末してしまったのだという。
何故米国の現存の書類には、ロウ少尉の処刑がないのだろう?
ロウ少尉の遺族が、母親が通知を受け取った時その場にいて、その母親のショックの様子を見ている。
澤地は、処刑は事実だろうと思う。私も事実と思う。米海軍だって、わざわざ母親を悲しませる嘘の通知は出さない。
何故公式の記録がないのか、不思議である。
この巻(第12章)の最後に、ロウ少尉処刑の傍証が示される。
1984年秋の終わりに、ある人物が澤地を訪れる。この連載に触発されてというわけではない。澤地による「戦犯参考人調書発見」の共同通信関連の新聞記事を見てのことである。ただし、新聞記事の7か月後のことである。
澤地は、この証言者がどんな境遇に陥るかを心配し(澤地はずいぶん批判を受けた)、証言者へ至る手掛かりを一切公表せず、X氏としている。ただ「巻雲」乗組員という事だけは明かした。
Xは、米国公式文書も他の証言者も言っていない証言をする。
①巻雲は、ミッドウエーで2回捕虜を収容(他の証言はミッドウエー海域では1回)
②一回目の捕虜は、石油缶を足につけて海中へ投棄(他の証言と同じ)
③Xも戦後、米側から尋問を受けたが、だれが書いたか分からぬが、処刑時の克明な巻雲艦上の人員配置図を示され肝を冷やした。
(このことについては、米国公式文書には残されていない)
④2回目の捕虜は、いつも監禁されていた浴室に、超高温の蒸気を出して殺害し、海に捨てた
⓹Xは、米国外交部と接触しこの証言をしたが、外交部代表は、「公的立場で聞いたことにすれば、しかるべき報告をしなければならず、今日のことはなかったことにしてくれ」と言った。
澤地は、この証言を、「証言全てを信じるわけにはいかない。しかし、嘘とするならあまりにも状況が生々しい。わざわざ嘘を言いに来る必要もない」と考えて、蒸気での処刑もあったと判断する。
澤地は、Xに、ロウ少尉の写真を見せたが、否定はせず殆ど認めた様子であるという。
澤地は、蒸し殺しされた捕虜をロウ少尉とは断定せず、「捕虜となって殺害された米搭乗員たち。その一人がロウ少尉であり、捕虜のうちの誰かが蒸気によって殺されたのである」と言っている。私もそう思った。
澤地は、3名以外にも、虐殺された捕虜の存在を証明したと言えると思う。
最後に、澤地に対する当時の批判を、再批判も含めてをまとめると、
A: ①日本軍の不法行為の証拠を発見したことで澤地が喜んでいるが、喜ぶべきことか
②戦争は殺し合い。殺す方法を論じて何になるか
③米は原爆で非戦闘員を殺害。ソ連は、シベリア抑留という不法行為を犯している
④戦争は人間を極限状態にする。そんな中どんな行為を取るか、誰も予想できない
⓹すでに調査記録されていることがあなたによって正確になると思えない。売文行
為なのではないか。
B:⓵単なる事実の羅列は、歴史ではない。後世に残す妥当な価値の有無が歴史的真実
の条件。40年前の事実があったとしても、小説の材料にはなっても、本来の歴史で
はない。澤地は、小説的事実と歴史的真実を識別してない。
②これを取り上げた新聞の編集の理念と取材の基準が疑問
C:①今回の報道で2つの不快を感じた。残虐行為と澤地氏の人間性
②戦争という極限状態で、万人に平常心を求めるのは至難
③戦場の体験もない澤地氏が神ならぬ人間の半面の理解や心の深奥の探求もないまま
同胞の非を蒸し返すのはどういう心理か。そこには、身近な人間愛もない。
④日本人も敵国人も戦場にあって尚人間愛を示すものが多数。澤地氏のように、日
本軍の本質を誤認させるのはまずい。
D:日米同盟の関係にある現在、旧悪を暴露する必要はない。日本人は自虐性が強すぎ る。外国人は都合の悪いことは言わない。いつまでも、異常な時代を暴き立てては、平和は望めない。
澤地氏への擁護論もまとめると
A:澤地は、歴史的事実は事実として発表。うれしい事では決してないはず。売文とは、偏見が過ぎる。戦争を知る世代が少なくなっている現在、、歴史の教訓を忘れたはいけない
B:澤地の言う喜びは、連載記事の欠落部分を探し当てた喜びであり、残虐行為が分かったことで喜んでいるわけではない。
C:批判者が事実と真実を分けて発言していることは、理解しがたい。
D:批判者の「犯罪の暴きをやめ前向きに」という発言はおかしい。過去の真実を見ないでどうして正しい道にすすめるのか。(16歳の男子高校生)
澤地は、この論争以前に、沖縄戦での米軍の記録写真に残された、戦闘の嵐の後の、
米軍兵士の弱者(子供・年寄り)に対する「自然な心の痛みとか憐憫」を紹介している。(「沖縄戦記録写真集」「総史沖縄戦―写真記録」・・・ほとんどが米軍が映したもの)
またこの論争以前に、長谷川伸「日本捕虜誌」(戦争末期から書きつがれた。昭和30年
自家版非売本)を紹介している。その中身は、太平洋戦争以前の、主に日本兵の戦時におけるヒューマニズムの発現。
澤地は、ミッドウエーでの日本軍の捕虜処刑という犯罪に触れる前、この二つを紹介している。
澤地に対する批判者は、「蒼海(うみ)よ眠れ」を読まずに、批判していると思われる。まともに物事を見たくないんだと思う。
澤地は、厳しい批判がある中、真実を求めて調査し、まとめて発表した。その労苦は言葉では言い表せないほどだったろう。
また、澤地が捕虜を処刑をした国(加害者側)の一人の女性として、被害者の遺族とまともに対面して証言を得ようとする、その辛苦も想像できる。
澤地久枝、すごい。偉い。お疲れさんでした。
澤地が、「蒼海(うみ)よ眠れ」を発表してから約40年がたつ。今も、戦前の日本の残虐行為や不法行為を言うと、激しい批判をするものがいる。
澤地が、ミッドウエー海戦での死者の、個々人の人格と生き死にに取り組んで、発表し、また論争の渦中にあったころ、それについて私は、全く何も知らなかった。当時私は26歳から29歳。23歳で就職してすぐで、夢中で仕事をしていた。恋もしてた。
高木彬光「連合艦隊遂に勝つ」(ミッドウエー海戦ほかで日本が勝つ話。勿論IF。)を面白く読んでいたのは、恐らく自分の30代前半。
高木がこの小説を発表したのは、1983年8月1日。澤地は、1983年5月この連載を開始している。前に紹介した第2巻では、戦後海軍関係者の主張する敗因の「雷装→爆装→雷装」転換は、怪しいと澤地は、指摘している。高木はこれを見てないのか、見ても、あえてそれでも書いていたのか。高木のイフは、事実に基づいたIFではなかったのか。私は、高木のIFを見て、旧海軍関係者の主張する敗因(兵装転換)を本当と思ってた。
映画やドラマで、連合艦隊を取り上げたものはいっぱいあるだろう。私は殆ど見てはいないけど。
歴史を見る目のありどころは、いっぱいあっていい。しかし澤地のような視点は貴重だ、その事実を求める行為は稀有だ。
今現在も、知らない真実が、いっぱいあり、進行しているのだろう。