澤地久枝「蒼海(うみ)よ眠れ」(5)

第3巻の続き

第8章 シアトルにて

シアトルでの、ミッドウェー海戦の米国側遺族との面会の話。その経過と遺族の話から見えてくる兵士を描く。

兵士の一人は、日本空母殲滅の先駆けとなったウォルドロン中隊の別動隊アベンジャー隊の一人。6機中ただ一機生還した雷撃機搭乗員(3名)の中で、一人だけ戦死したジェームズ・マニング飛行兵曹である。

面会したのは、弟二人である。

 

ジェームズは、8人兄弟姉妹の長男、折からの大恐慌で、農業を諦めた一家の生活は苦しく、「生活苦の為の海軍志願」と弟たちは言う。2年後20歳で戦死。弟たちは、兄の埋葬状況を知りたくて、海軍をはじめ公的機関に問い合わせるも、不明。

 

 

も一人の兵士も、ウォルドロン中隊のレイモンド・ムーア大尉である。話すのは、元妻のジューン。

元妻は、二人の出会いから結婚、新婚生活を丹念に話す。「彼は、生命力とユーモアのセンスがあり、子供好きで、すてきな人」とジューンは言う。二人は、ジューンの母親の遺産もあり家を建て、一人っ子にも恵まれたが、海軍は転居生活。一度もここに住まず戦死。ジューンは、その後2度結婚した。

 

澤地は、ジューンについてこう言う。「レイモンドと一緒に暮らした時間は、24か月くらい、65年の人生。3人の夫。その中の一時期を問われて当惑もし、迷惑なこともあったかもしれない。私は取材の限度を感じて質問を打ち切った」

 

澤地の苦労とともに、人生の茫漠、時の流れを感じた。

 

第9章 母の長命

「息子が異形の若死をした場合、その母は長く生きることが多いように思われる」という意味の文章で始まるこの章は、ミッドウェー戦死者の母について語っている。

 

回収したアンケートの返答や遺族への面談は、10代~20代の6名の戦死者を語っている。その多くの母は、80歳から100歳まで生きた。知り得た日米の遺族のうち最高齢は、100歳である。空母「加賀」の2等整備兵 堀切園尚二の母カメキクである。

 

澤地が詳しく語っている山田コトは、88歳(昭和56年)。耳は全く聞こえない。澤地は紙に書いて聞く。空母「加賀」で戦死した山田久治は、次男坊である。母は、出征以来、ずっと陰膳を供えてきた。そのご飯茶碗のふたに水滴がたまらない異変があった時、久治は戦死していた。その戦死の最後を見届けた人は未だあらわれない。

山田コトは別れ際に、小さくたたんだ紙幣を澤地に押し付け、「花でん、ひとたばやって」。澤地がどんな困難があろうとミッドウェーへ行くのを知っての頼みであった。

 

澤地は最後に、「母たちの長命は、戦死した息子の人生が見届けられるのを待つ語り部として保たれてきたように思える」と言っている。

 

この文章はどういう意味だろう。

私は、「若くして死んだ男たちが本来見届けたはずの未来を、母が見て、息子たちに語れるように、長命が与えられた」、という意味ととった。

 

第10章 ナーシング・ホーム

ナーシング・ホームとは、医療設備を持つ有料老人ホームである。この章は、米国メイン州バースのナーシング・ホームに生活する90歳のジョアンナと戦死したその息子二人の物語である。息子は二人とも志願兵である。

 

長男リチャードは、日本の真珠湾攻撃の時戦死、23歳。彼の乗艦・軽巡洋艦「ヘレナ」は、雷撃を受け爆発した。しかし具体的にリチャードの死の状況は分からない。

 

次男アルバートは、その半年後ミッドウエー海戦で戦死、21歳。第6章で取り上げられていた「ハマン」での戦死である。「ハマン」沈没後、海中で爆発を受け重傷、駆逐艦ベナムに救助されたが、船上で死亡、水葬された。

 

兄弟は、それぞれ家族に20通ずつの手紙を送っている。一度だけ、二人一緒の手紙がある。真珠湾で「ヘレネ」と「ハマン」が一緒の時のものである。

 

手紙には、兵員生活の様子とともに、母や父を思う普通の青年の気持ちが、あふれている。

 

澤地は、この手紙群で2人の兵員生活を紹介しつつ、母親ジョアンナの人生をたどっていく。彼女は戦後再婚するが、68歳の時再び未亡人となる。一人暮らしを19年の後、孫夫婦と同居、脳梗塞発作後、88歳でホームに入居。

 

澤地のインタビューの最後を紹介する。

澤地「戦争をどう思いますか」

ジョアンナ「ひどい。ほんとにひどいものよ。残されたものは哀れです。2度と帰ってこない人生だもの」

澤地「人生で一番幸せだったことは」

ジョアンナ「・・・そうねえ。子供を腕の中に感じていた時かしら。赤ちゃんが生まれたころは楽しかった。ほんとに、素敵だった」

 

息子を失った母の気持ちは、当たり前だけど、日米ともに変わらないな。

 

第11章 ラブレター

この「蒼海(うみ)よ眠れ」第3巻は、7章日本、8章米国、9章日本、10章米国と、交互に紹介している。

第11章は、ミッドウエー海戦で戦死した、日米双方の兵士を描く。空母「飛竜」のM海軍大尉と空母「ヨークタウン」のアダムズ海軍大尉である。両艦ともミッドウエー海戦で沈没した空母である。

 

6月5日、アダムズたちの米軍機は、「蒼龍」「赤城」「加賀」を攻撃。この3艦は、被弾・誘爆・大炎上、沈没する。米軍機は、一隻残った「飛竜」を探す。残った「飛竜」からは、M大尉らが「ヨークタウン」を攻撃する。M大尉はこの攻撃に参加して戦死した。アダムズ大尉は、「飛竜」発見の大手柄を立てる。「飛竜」「ヨークタウン」とも海中に没する。母艦を失ったアダムズ大尉は、「エンタープライズ」に着艦。6月6日残存する日本艦隊攻撃に出撃して戦死。

 

この二人は、相似形である。

どちらも、海軍兵学校出身、大尉、爆撃機搭乗、母艦を失い、ミッドウエーで戦死。

そればかりでない。当時最初の子供の誕生を待っていたことも。アダムズの娘アンは、5月22日誕生。M大尉の娘A子は、6月14日誕生。

そればかりでない。二人とも妻にあてた手紙を多く残したこと。めろめろの手紙を多く残したこと。

 

M大尉「・・・でも、私ども二人は向かい合って座ってだまっていても、お互いの心は通じるのですからね。しっかり抱いて居れば、お互いの心は温かく溶け合います。

ね、そうでしょう。・・・今夜もまた、あなたの写真を引き出して夢で逢いましょう。もう11時半です。おやすみなさい。あなたをしっかり抱いて熱いキッスをした夢を見てやすみます。僕の一番、そして唯一の愛しい人へ あなたのMより」

これが残っている手紙の第一信で、M大尉は全部で97通!残している。

M大尉最後の第97信(昭和17年5月25日、戦死10日前)

 「K。内地における最後の便りを書いている。どうぞKが安産するように、そして元気でいるように祈りながら・・・。いつもいつも僕は元気でそして朗らかだから、ご心配なく。またうんと頑張ってそして手柄話をうんと持って帰ろう。Kも元気な赤ちゃんを産んで、立派に育ててくれ。・・・じゃ今日はこれでさよならをする。書こうと思えば案外書くこともないものだ。・・・じゃ、くれぐれも御身お大切に。またお前の写真だけ眺めて暮らす日が多くなった。楽しかったことばかりを思い出すことにする。さようなら」

 

一方のアダムズ大尉の手紙は、娘のアンがアダムズ夫人の死後、そのほとんどを燃やした。それでも何通は残した。

1940年6月29日付け アダムズ大尉

最愛の妻へ。・・・・君がいないのが寂しい。ここにいてくれたらいいのに。まだ三週間しかたってないというのに、もう長いことあってないみたいだ。・・・君の写真をこの僕の机の上に飾っている。君はいつも微笑みかけてくれていて、僕はそれに向かって話しかけているんだよ。・・僕の愛のすべてを君に」

 

アダムズ大尉の最後の手紙(1942年5月12日 戦死24日前)

僕の最愛の妻へ。君に約束した手紙が一週間も遅れたけど、忙しくて書く暇がなかったのだ。でもいつものように君のことを考えていた。・・・送ってくれた写真は嬉しかった。美人に取れてたよ。僕のも送るからね。・・・ああ、大事な時に一緒にいられなくてすまない。・・・では、これくらいで。直ぐまた書く。この手紙が君の家のドアまで飛んでいくといいね。十分に気を付けて。予定日まで元気でいるんだよ。愛してるサム」

 

この二人。澤地の言葉を借りると

「M大尉とアダムズ大尉は、敵を求めて飛んでいた一瞬、視認できぬまま、極めて近づき、すれ違った可能性がある」

 

そうかもね。戦争とは、・・・どういったらいいんだろう・・・・。