澤地久枝の偉業「蒼海よ眠れ」(3)

第二巻の後半。

第5章 生き残ること

この章は、生き残った軍人やその関係者のついて記述している。ただし、「逆縁」についても触れていて、章題にあわない内容も含むと思った。

「逆縁」とはこの場合、戦死者の妻が、その兄や弟と再婚すること。戦死者の残した子供の養育やその家の存続のためである。澤地はインタビューに応じた数件を紹介している。うまくいった場合もそうでない場合もある。いずれも生活は苦しかった。

 

さて生き残ることについて。

〇空母「加賀」軍医長 早川美智雄の場合

長女智子は「蒼海よ眠れ」を見て、澤地に手紙をよこす。それによると、早川美智雄は、戦後の混乱、公職追放、妻の死という激変の中で、外科医をしながら、「加賀」の生存者と連絡を取り、遺族の安否、生存者名簿を作ったという。普段は無口なのだが、酒を飲むと泣きながら生き残った者の煉獄を語ったという。遺言は、「遺骨は必ずミッドウエーの海に沈めてくれ、私には戦友たちのところが安住の地」という事で、子供たちは、分骨して壺に入れ、桐の箱に石を詰めて海に沈めた。

 

〇空母「赤城」艦長 青木泰二郎

赤城は、空母部隊の司令部(南雲中将以下64名座乗)たが、6月5日午前7時24分最初の被弾から連続して攻撃を受け、誘爆が始まる。司令部は約20分後退去。消火に努めるも誘爆が続き、16時25分青木は、総員退去命令。青木は、鎖に体を縛り付けていたが、赤城は、なかなか沈まず、19時30分、説得されて赤城を降りる。

日本に帰り、7月14日付で予備役、11月海南島警備、敗戦時は、朝鮮元山航空指令。

戦後は、埼玉県上尾の戦災孤児教護院手伝い。子供たちと畑仕事。

澤田は言う。

「喪失4空母のうち「赤城」の戦友会だけが、海戦から40余年経ってもできない。という事は、もし青木が生還したことに絡むことだったら、「艦長は艦と運命を共にすべく、生還は汚名」という亡霊が今も徘徊している」

青木元艦長は、一切釈明することなく、海戦から20年後死亡。

 

「生き残った者の煉獄」、「骨をミッドウエーへ」「一切釈明することもなく」に、

生き残った者の苦しさが表れている、と思った。

 

この章で一番印象に残ったのは、生還者の沈黙である。

重巡「最上」が二隻の駆逐艦に、僚艦の重巡「三隈」の救助中止命令を出して、その領域を去ったこと。「三隈」で助けを求めていた数は150名から200名と言われる。

 

戦後40年経ってからの一通の手紙

 救助された駆逐艦から見た光景。何かにつかまりながら手を振って助けを求めている兵がいた。顔はにこにこしていた。その兵を無視して駆逐艦は進んだ。手紙は、駆逐艦名を語らず

 

〇澤地は言う「ある駆逐艦では、敵味方双方を助けたが、味方の戦死者の水葬と前後して、敵俘虜を生きながら水葬したという。ある艦では、俘虜たちは、激高している敵(日本)の男たちの殴打に甘んじた。・・・俘虜になりながら生還した米国搭乗員は、皆無である」

 

ミッドウエー海戦での、日本側搭乗員の死者は、121名、米側搭乗員の死者は、209名。209名のうち、捕虜となった後殺されたのは何人か。

 

これらを見て経験して、生きて戦後を迎えた日本人は多数いるはず。しかし証言は殆どない。

 

第6章 「ハマン」からの声

「ハマン」とは、米海軍駆逐艦。ミッドウエー海戦で沈んだ空母「ヨークタウン」が

日本空母「飛竜」からの攻撃で、致命的な損傷を受けた時、乗員を救助に横付けした駆逐艦である。その時「ハマン」は、日本の潜水艦の雷撃で撃沈した。

 

澤田は、アメリカで「ハマン」の何名かの遺族との連絡が取れた。アメリカの遺族も、親族の戦死者の最後の姿を求めて接触してきたが、殆ど分からなかったというのが現実である。

 

その中では、澤田が、夫人から聞いた「ハマン」艦長が印象深い。艦長アーノルド・トルーは、沈没時、海中で2人の乗組員を抱えていた。救出されたとき、一人はすでに死んでおり、もう一人はボートに抱き上げられたのち死んだ。

艦長は真珠湾の病院では、毎日部下を見舞った。部下の一人は、理髪師で死ぬ前「私は誰も殺したくなかった。みんなの髪を切りたかっただけです」と言った。

 

ハマンは、乗員の3分の1近くを失った。

 

艦長は、戦後、熱烈な平和主義者となり、ベトナム戦争に強く反対し、夫妻ともFBIの監視下にあったという。

 

それにしても、澤田のアメリカでの戦死者調査の努力は大変なものだ。全米約170社の地方新聞に、その地元の戦死者名・遺族名・住所を示して、情報提供を呼び掛けたのである。そして遺族や関係者と連絡を取ったのである。

 

NHKEテレ特集では、澤地の調査が、アメリカの公式記録より正確であったことを伝えていた。