澤地久枝の偉業「蒼海(うみ)よ眠れ」(12)

第6巻 エピソード 少年の死(承前)

2.人生15年

澤地は、日本側のミッドウエー海戦の最年少戦死者15歳の4名について語っていく。

15歳、中三か。中三で兵士として戦死したんだからなあ。

丸山勉  長野県出身 蒼龍乗り組み

勝又肇  千葉県出身 蒼龍乗り組み

土屋良作 静岡県出身 赤城乗り組み

平田良雄 島根県出身 三隈乗り組み

戦死の状況が比較的分かるのは、土屋だけである。

他の3人についてわかることを、澤地は丁寧に拾い上げている。

丸山・・・軍歴紹介の後、「どんな少年だったか、夫を失い末っ子(勉)を失った

     母の思いなどわかる人もいない」

平田・・・母アサが健在。アサの最後の面会の時の話。家で作った寿司を持って行った。「義雄は別に何も言いやしません。何もないまま別れてしまいました。とても学校の成績はいいし、よう家の手伝いもしました。学校へ行く前草刈りをしたりなあ・・・。あんまり若うて、可哀そうになあ・・・」

 

※14歳で海兵団に入団したものに限らず、少年兵は激烈な競争で選抜された者たちで、学校成績は勿論ほかの面でも優秀な子たちである。

 

勝又・・・澤地は、勝又肇の生家を訪ね、長兄と肇の墓に詣でている。

長兄や姉から聞いた話だろう、澤地は、肇の人となりを述べる。

「子供らしい自負心という以上に勝俣少年はまだ子供だった。例えば海兵団受験の時、昼飯用のお結びだけ持って行き、帰りは夜になった。長兄の哲は提灯を手に迎えに行った。片側が田んぼ、片側は山で墓が立ち並ぶあたりに通りかかると、シクシク鳴く声がする。「はつ(肇のこと)迎えに来たぞと声を掛けたら「あんちゃん」と抱きついてきて泣いた。ひどく腹が減って声さえ出せなくなっていた」

 

最後の面会時(昭和17年4月8日)肇は、面影が変わっていた。「父上様、姉上様、本日は遠路はるばる面会においでいただき、ありがとうございました」ときちっという。別れがたくて父と姉がたたずんでいると、海兵団の建物の2階から手を振っている肇が見えた。手を振りながら、もう一方の手で目頭を押さえる姿が見納めとなった。彼の死を証言する人はいない。

 

志願とは言え、こんな子供まで使って戦う戦争っていったい何を守っているんだろうか?

 

3.海からの風

ミッドウエー海戦の戦死者の長大な物語の最後である。死亡時のことが比較的よくわかる土屋良作について書いている。まとめる。

土屋良作。熱海郊外の農家生まれ、5男3女の二番目。海軍通信学校入学。「赤城」受信室で戦死。

父の手紙「良作、次男にて生まれてより丈夫にて小学校にても体格上位で、運動も得意、何の部にも人後に落ちること少なく、活発でした。・・・軍隊生活は中学校に出てからでも良いと申しましたが、受け持ちの先生が「それは意義がない」と志願を勧め、本来なら進学を進めるべきだのにと思いました。・・・後で各学校への割り当てがあるらしいと思い当たりました」

土屋良作は、弟、祖母、父にこころこもる手紙を残す。

例。「・・・おばあちゃん、お手紙ありがとうございました。・・・軍務生活で一番うれしいと思うのは食事の時、床に就くとき、家からの手紙が一番うれしくまた楽しく思います。・・・行軍名で行くと、麦刈りをしている所、田植えをしている所を見ると、家でも想像いたします。ではお体を大切にさようなら」

最後の面会では父に「親孝行をできる死に方をしたい。僕が死んでも長生きして」と言った。

土屋良作には、遺骨はないが腕時計が遺族に戻った。なぜ腕時計が戻ったか、どんな死に方をしたかについては、少年の死の30年後遺族が知ることになる。

 

同学年の戸塚喜七郎が同じ海軍の同じ学校、同じ赤城通信室勤務で、6月5日被爆の時、二人で通信担当をしていた。15歳。

 

戸塚は火災に追われ、海に飛び込んだ。泳ぎは得意でない。そばに土屋良作がいた。土屋「戸塚、危ないから早く来い」といった。艦から離れた。マントレットにすがっているうちに土屋と別れ別れになった。3時間半後駆逐艦「野分」に救助された。しばらく休んでいると、赤城の通信兵はいるか、と放送があり、兵員浴室に行く。土屋良作が横たわっていた。「何か遺品を取れ」というので、土屋の時計と生えかけの陰毛を取った。戸塚は、30年後土屋家を訪問した。死のすべてを話すことは出来なかったという。

 

土屋の母

「戦友の方が(戸塚―A0153注)訪ねてきてくださって、包帯で巻き上げて水葬の袋に入れて葬ったと教えてくれました。有難いと思いましたが、それでも魚の餌になってしまったのじゃないか、海底でどうしているかと思ったらね・・・」

「ならい(外洋から吹く風)が吹くと、私は何度磯へ下ったか知れない。何かありゃしないかとね。あの子の形見になるものがたどり着かないかと思って浜へ出たんです。・・・」

土屋の父

「私もちょいちょい浜へ出たですよ。戦死の公報が来てももしやと思わずにはいられなくてね。・・・私は頭蓋骨や何かがばらばらになって、海の底でゴロゴロ転げているんじゃないかと想像して、まったく不憫な奴だと・・・・(絶句)」

 

東日本大震災で行方不明の家族を海に迎え出ていた人たちを思い出す。

 

このシリーズの最後は、澤地久枝の原文を抜粋して紹介する。

「15年の人生はあまりに短い。子供がやっと少年になる頃である。海軍へ入団して1年一か月、軍艦へ乗り込んで一か月。子どもの目に見る光景としては凄惨すぎる断末魔を経験し、帰る時のない深い海の底へ沈んでいった。

・・・生育しきってない15歳の少年たちの戦死には、あの海戦の見据えるべき実相があろう。・・いくさというにはあまりにお粗末、あまりに拙劣な対応の中で少年たちはむざと死んでいった。その幼い死すら踏み石にして、責任ある地位にいた軍人たちのメンツと体面を繕ってきた「ミッドウエー海戦」ではなかったのか。

少年たちの骨は、・・・細く白さが際立っていたともいわれる。骨は海の底でまじりあい、40余年の歳月の中で朽ちていく。水漬く屍となった戦死者の中に混じる幼い死。15歳の戦死者ー。

故郷へ還る日のないいくさびとたち。死んで無名の鬼となり、その思いが海からの風となるなら、風よもっと吹け、もっとつよく、熄(や)むことなく吹き続けよと思う。そう願わずにはいられない戦争体験風化の暦が今日も繰られていく。(完)

 

 

ミッドウエー海戦の40年後澤地はこの文章を書いた。

この文章を澤地が書いてからまた40年がたった。戦争体験風化はますます進んだ。

1954年創設された自衛隊は、海外に出たことないのに、

2000年初頭、イラクの「非戦闘地域」に派遣された。

2015年、全世界で戦う米軍の後方支援ができることになった。日本が攻撃されてなくと

    も自衛隊武力行使ができることとなった。(安保法制)

2023年、敵基地攻撃能力を持てることになった。

今のところ日本は戦争を直接経験はしてない。しかし、「今のところ」である。

 

ミッドウエー海戦の日米双方の3000余名の戦死者は、国家の命令で殺し合った。「銃と軍服を脱いだらいい友達でいれたかもしれない」=(映画「西部戦線異状なし」の一兵士の言葉)=日米の若者どうしが殺し合って死んだ。皆いい若者であった。それぞれに喜び悲しみ楽しみがあり、愛があった。妻・恋人・父母・兄弟姉妹がいた。友人が、子がいた。すべてと別れて、今もそして永遠に、ミッドウエーの5000mの海底に沈んでいる。

 

「なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ」

            (「きけわだつみのこえ」の冒頭文)

 

澤地久枝さん、日米での数年にわたる調査・報告・戦い・和解の旅お疲れ様でした。現在日米両国民の貴重な財産となっています。将来もそうなるでしょう。お疲れ様でした。ありがとうございます。又長々と引用させていただきました。ありがとうございました。現在92歳とか、いつまでもご壮健でご活躍ください。(2023年8月27日)

サンズイのそうが書けませんで「蒼海」と書いていました。すみません。一太郎だったら手書き文字というのがあったのになあ。