澤地久枝の偉業「蒼海(うみ)よ眠れ」(11)

第6巻第15章(承前)

16 三人の軍属

この項は、「三隈」の軍属についてとその他に分かれる。

軍属とは、軍人ではなく、軍にやとわれた民間人である(雇人)。洗濯夫2名と剃夫1人である。澤地は言う「・・・どんな人生があったのかを知りたいと思って手を尽くした。・・・忘れられがちな艦の、忘れられた雇人の死。遺族によってもに肉付けされるところがなく、復元しようのない青年たちが死んでいた」

 

私は、この軍属たちが、最低級の勲章を受け、当たり前かもしれないが、戦死者全員が受ける一階級特進を受けなかったことが印象深い。

 

この項の後半は、「三隈」の主計科、機関科、電気分隊の戦死者について書いている。詳しくわかる数名、概要しか分からぬもの数名。何もわからぬもの多数である。

詳しくわかる一人石谷悦次機関大尉について紹介する。石谷は、海軍機関学校出身。25歳で戦死。既婚。

その弟照美の手紙「・・・水泳に強く毎年私に(照美)にメダルをくれた。・・・18年11月私の母は長男の戦死、私の音信不通(南方へ従軍)であることから世をはかなみ、高野山へ行くと言って家を出たまま行方不明。39年失踪宣告確定、・・戦争の傷は今も心を疼かせます」

息子の戦死で世をはかなみ失踪した母親がいる。

 

17「荒潮」と「朝潮

どちらも重巡「最上」「三隈」と行動を共にした駆逐艦である。

この項は、澤地久枝をこの著作に駆り立てた手紙から始まる。

その手紙は、「三隈」で戦死していたと思われていたが、米軍の捕虜となった生還した二人のうちの一人(ヨシダ・カツイチー尋問調書での名、但し偽名)の長女からのものである。

彼は一切語らず自殺のように死んだという。長女は父の死後、生前の父について情報を探す。その一環として澤地に手紙を書いた。澤地は米国での彼について情報を得ようとするが、ない。

 

後半は、この捕虜から離れ、「荒潮」と「朝潮」の戦死者について語っていく。

「荒潮」は、「三隈」の救助に当たるが、米軍の攻撃が厳しく、救助活動を途中で打ち切る。見捨てられて死亡した人数は、米軍の飛行兵の目撃者の証言では、4、5百名、捕虜となった兵士の尋問記録では、数百人、戦史叢書には「百名から百五十名」とある。結局分からないのである。

朝潮」の最年少の戦死者(18歳)が私の福島県相馬郡出身とあるのに注意を惹かれた。私の町=相馬郡中村町(現相馬市)出身かもしれない。

 

18 「戦死者の生還」

この項は、イシカワケ・ケンイチ三等機関兵のインタビューで出来ている。「三隈」の捕虜の一人である。彼は「三隈」の沈没の様子、漂流の様子、救助の様子、尋問の様子を詳細に語っている。

 

イシカワが帰宅した時、既に三回忌が終っており、「英霊」となっていた。

 

イシカワは、17で紹介された人物とは違う。一切語らず自殺のように死んだ元捕虜は、「ヨシダ・カツイチ」と尋問に対して答えたが、それは、偽名であった。

 

イシカワのインタビューから一部紹介する。三隈沈没前後の唯一の証言者である。

 

イシカワ「あのね、ガブガブツ、と沈んでいった。あれ、一種の自殺やな。あんなに一気に沈んでいけるもんか。わしは手を伸ばして、何回も引っ張ってやったけど『もう離してやれ』と誰かに言われた。海はものすごく透き通っていてな、そこへ一直線に沈んでいった。可哀そうなとは思えへん。『もう離してやれ』と言った人も沈んでいった。」

 

漂流中の様子である。精神に異常をきたし、幻の味方の駆逐艦を目指して泳いでいった主計中尉もいたという。

 

15名から19名筏に乗っていたが、二人しか救助されなかった。イシカワは、6日間漂流と思っていたが、救助した米国潜水艦トラウトの記録は、6月10日救助となっている。米側では、三隈は6月7日沈没と考えているが、正確には分からない。

 

19 見捨てられて

この項は、17の手紙のヨシダ・カツイチについて長女が調べた情報から始まる。提供したのは、同年兵AとBである。どちらも戦後ヨシダ・カツイチと付き合いがあり、彼から聞いた話を長女に伝えたのである。

も一人の提供者は、有名な酒巻和夫真珠湾攻撃の時の捕虜、日本人捕虜第一号、この本執筆当時は、ブラジル・トヨタ社長)である。

 

ヨシダ・カツイチの一面を紹介する。

「俺は虜囚の恥を死を持って償わんと40日間断食した。米人が呆れて何回も食わせようとしたが断った。が、天我に味方せず80余Kあった体重が40キロをわった。ついに強制的に食わせられ、今に至っている。残念だ」(同年兵Bによるヨシダカツイチの言葉)

酒巻和夫の長文の手紙の一部「・・・被収容の身なので、・・・自暴自棄な言動もありがちで、本当に生死の問題になりそうなこともありました。そんな中で冷静に判断し、健全な言行でいつも協力に支援してくださったのがご尊父(ヨシダカツイチーA0153注)でした。」

 

その後は、「三隈」の戦死者の紹介をしている。

澤地は言う。「『三隈』の戦死者たちは、遺族の回答が320名分ある。その一部しか紹介できなかったが、それぞれに人生とはいかに多様であり、その死が如何に哀切であるかを語っている」

この章の最後で澤地は言う。

「大和以下の連合艦隊主力が桂島泊地に帰投するのは6月14日午後7時。「戦争のはらわた」をあらわに見せてミッドウエー海戦は終わった。しかしいつ完全に終わったと言えるのだろう。」

 

遺族が戦死者の戦死の様子を求める限り海戦は終わってないし、遺族が父・兄・弟・夫の戦死に影響される生活を生きる限り海戦は終わってないし、遺族が戦死による心の傷を抱える限り海戦は終わってない。澤地が海戦の真相や戦死者を追い求める限り海戦は終わってないと思う。

 

エピローグ  少年の死

これは、「サンダー毎日」に連載された記事ではない。その後澤地が新たに書いたものである。

1.いとこ同士

ミッドウー海戦での米海軍の最年少戦死者は17歳である。8名いる。ウオーレン・リチャードソンとロバート・リチャードソンは、その8名のうちの二人で従弟である。どちらも駆逐艦「ハマン」で戦死した。二人は語らって海軍に志願した。戦死の状況は分からず、ロバートの遺体は確認できて水葬されたが、ウオーレンの遺体はみつからないままである。

澤地は、ウオーレンの妹ジョアンにあいに行く。

ジョアンは、初め日本人をひどく毛嫌いしていたが、やがて打ち解ける。

澤地と行ったウオーレンの墓地で、ジョアンは言う「兄が行方不明になって6、7年後たまたま入ったオフィスビルに東洋人女性がいたの。そしたら瞬間的にぞっとする感情に襲われたの。」

澤地はそれを殺意に近いものだと想像する。

ジョアンは言う「母を連れてこなかったけど、会えばきっとあなたたちを好きになったと思う」

 

私のすぐ前のブログで触れた、テニアンで日本人の子供のために学校を開いてくれた人の言った言葉「人と人が知り合えば憎しみは生まれない」を思い出す。そうなんだなあ、庶民同士はかなりの部分分かり合える。普通人同士は、少なくとも殺し合いはしない。国家が人を殺せと命じる。国家なんぞ、消えてなくなればいい。

 

長くなりましたので、この辺で打ち切ります。あと少しでこのシリーズも終わりです。