澤地久枝の偉業「蒼海(うみ)よ眠れ」(7)、自民のかつての旗を拾え

*サンズイのそうは、出てこないので、蒼海(そうかい)と書く。

第5巻は、第13章「あけぼの丸」と第14章「まぼろしの蜜月」からなる。

「あけぼの丸」については、この本を読むきっかけになったNHKETV特集で初めて知った。

この特集で、華々しい空母決戦の前に、戦死者が出ていることを知り、びっくりした。

 

そして、「あけぼの丸」の戦闘への日米の認識の差に、ミッドウエー海戦の敗因が潜むという、澤地の指摘に納得した。

 

米側が未明「あけぼの丸」等への攻撃に成功し、戦いが始まったと認識している時、連合艦隊首脳も一航艦首脳も、「あけぼの丸」被爆について無関心だった。その認識の差が、「勝敗を分ける最初のターニングポイント」、と澤地は言う。

 

「あけぼの丸」は、ミッドウエー島攻略部隊を護衛する水雷戦隊への、燃料補給のタンカーである。

 

連合艦隊司令部や一航艦(南雲空母部隊)から見れば、日本軍の陣容は、主役が南雲空母部隊、準主役がミッドウエー島攻略部隊、準脇役が攻略部隊を守る護衛部隊で、「あけぼの丸」は、準脇役補助のように見えるだろう。準脇役補助への攻撃を重視しなかったのである。(脇役は、空母部隊の護衛艦隊)

 

さてこの章でも、澤地は、「あけぼの丸」で戦死した10名について、その遺族を探し、戦死者の人物像、戦死の状況、遺族の戦後について記述していく。

 

海戦の最初の戦死者を出した「あけぼの丸」の死者への澤地のアプローチは、ずいぶん大変だったようである。忘れられたタンカーだからである。生き残った元兵士の証言などから、一人また一人と焦点が当てられていく。

 

10名のうち、2人を紹介する。

澤田が、初めに知った末広英雄は、16歳の時海兵団に志願、しかし重い脚気で、6年後除隊。その後警察官を12年。昭和16年11月思いがけず召集令状。翌年6月ミッドウエー海戦で戦死。35歳

 

妻の末広つや子からの、アンケートへの回答は、死の状況について「甲板上に上半身だけ残り、下半身は吹き飛んでなかったとのこと」。上半身がどうなったかは、分からない。

 

戦後、末広つや子は、貧困の中二人の息子を育てる。苦労話が続く。昭和25年キリスト教に入信。

 

澤田が会った昭和58年には、「原始福音の牧者」になっていた。私には、それがどの様なものか分からないが、つや子の言葉「主人があのような死に方をしなかったら、私は信仰の世界には入らなかったでしょう」が印象に残った。

 

も一人は、あけぼの丸」船上で戦死した中西次郎(22歳)の父親、中西勇治郎。

中西次郎は、魚雷の爆発で倒れた柱の下敷きになって死亡。グアムで火葬され

遺骨が戻ってきた珍しいケースである。

 

澤地は、超恐ろしいことをさりげなく述べている。ミッドウエー戦死者の遺骨が遺族のもとに戻ってきたのは、3000余名のうちたった3名。「あけぼの丸」の中西他1名計2名と重巡「三隈」艦長・崎山釈夫(しゃかお)計3名のみと。(p22))

 

父親中西勇治郎は、次郎の戦死が分かった時の地方紙に、大々的に報じられている。

「軍事扶助は辞退します。壮んなり、決死で生き抜く70翁」というタイトルで、

「お上からお金をいただいて父子が暮らしていては、命がけで戦争している兵隊さんに申し訳ない」などという談話が載せられている。また、これを村長が激賞している。

 

中西家は、働き手の息子3人が兵隊にとられて、74歳の父親と15歳の娘で、6反(田3反、畑3反)を耕している。貧困の中で、国家からの扶助を辞退するという軍国美談となっている。

 

ところが実際は違う。確かに軍事扶助は辞退したが、

父親は、弔問に来た村長に「アメリカなんて大きな国にバカな戦争をして、負けるに決まっている」と声を荒げて食って掛かり、親せきのものに止められている。

 

中西勇治郎は、昭和9年に妻を失い、4人の子を育てたが、二人に戦死され(3男は沖縄で戦死=死の状況不明・遺骨不帰)昭和27年死亡。

 

澤地は言う。「軍人恩給の実施は、昭和28年からで、喪った二人の息子の代償は、孤独な老人のもとには届かなかった」と。

 

 

310万の死者を出した日本に、遺族の親はどれだけいたろう。膨大な数だろう。兄弟姉妹さらに遺児まで含めると、どれほど多かったろう。

 

 

遺族たちが生きた戦後をたどってみよう。

昭和20年(1945年)敗戦

昭和25年(1950年)朝鮮戦争勃発、米国の占領政策転換によって、日本は再軍備を始まる。同年警察予備隊創設。

昭和27年(1952年)保安隊創設。

昭和29年(1954年)防衛庁自衛隊発足。自治体警察廃止・国家警察に一本化(警察の中央集権化)。

昭和31年(1956年)教育委員会法(公選制教育委員会を任命制に=教育の中央集権化)。

 

この動きを「逆コース」(戦後改革の否定、戦前回帰)ととらえて、社会党共産党・労組・学者などが反対運動を展開した。1954年(昭和年29年)の第五福竜丸事件をきっかけに原水爆禁止運動(3000万の署名)。内灘砂川事件など米軍基地反対運動も激化。

 

昭和30年(1955年)の総選挙では、非武装中立・護憲=戦後改革推進」を唱える社会党が、3分の1強を占めた。

それには、310万の死者の遺族たちの存在が大きかったのだろう。「戦争は嫌だ、戦争にかかわるすべて、武器・軍隊は嫌だ」という素朴な感情があったのだと思う。

 

しかし、社会党議席は、3分の1強しかない。なかったのである。

 

3分の2弱は、米国頼りの再軍備改憲・戦後改革否定の自民党がしめた。

 

再び両勢力が激突したのは、1960年安保闘争

 

自民党は、米国大統領訪日(中止)と岸内閣(総辞職)を代償に、安保条約を改定した。

 

その後、自民党は、経済成長に重点を移し(池田内閣の所得倍増など)、再軍備コースは、ゆるやかに進めた。軍国主義化にはある程度歯止めをかけた。恐らく、政権維持のため、国民多数の反戦意識を刺激しないように歯止めをしたのだろう。(これを軽武装・経済成長優先という場合がある)ただし、自民党政治家にも自民党支持層にも、軍国主義化反対の意見も根強くあったと思われる。なぜなら戦争の惨禍を身をもって知っている人が多かったろうから。

 

一方、自民党政府は、平和主義と並んで戦後改革(戦後民主主義)のも一つの柱、個人主義自由主義・民主主義への攻撃を強めた。

1954年    教育2法=教員の政治活動制限、政治教育制限、

1958年 道徳の時間開始(学校が道徳を教える?)

1965年 家永教科書裁判始まる(政府による教科書を使った歴史観への介入の問題)

1966年 建国記念の日制定≒紀元節復活=「日本国の始まりは、神武天皇即位から」=「個人の意思に基づく契約によって国家ができた(社会契約説)=個人主義・民主主義の基本的考え」を否定

1999年 国旗・国歌法「君が代=国歌」=「天皇の治世よ、永久なれ」という歌を歌え。

2006年 教育基本法改正(愛国心も教えろ、政府が教育内容に口出しするのも当然)

自民党政府は、この逆コース政策を、学者・教員労組・社会党共産党・労組等の反対を抑えて推進。

 

話を戻すと、

自民党軍国主義化の歯止めは、非核三原則、武器輸出禁止、自衛隊海外派遣禁止=専守防衛、防衛費はGDPの1%以内、文民統制など

 

自民党軽武装・経済優先政策は成功し、高度成長を現出した。1960年代末から40年間日本は、GDP世界2位を維持した。

 

1990年代初頭米ソ冷戦が終わった時、米国から、冷戦対応であった安保体制の再構築を言われ、自民党は、安保体制を見直した。(軽武装・経済成長優先に対して、言ってみれば、武装・経済成長優先

 

ところがである。1990年代初頭、米ソ冷戦が終わったころから、日本の経済停滞が起き現在まで続く。

 

この30年の自民党政治の結果は、「経済成長は出来ず、国民生活維持=政権維持のため、さらに重武装のため、世界に冠たる大借金国家」となったのである。

 

これってまずいでしょ。

 

「経済成長ができない」かつ「借金で運営するしかない」のだから、元の軽武装に戻すしかないでしょ。

 

非核三原則・武器輸出禁止(武器製造から撤退、武器製造先進国に対抗なんて無理、儲けられない)専守防衛・防衛費はGDP1%以下)に戻すのがまず先決と思う。

 

現在自公政府は、どこかと戦う米軍を自衛隊が、国外で支援するため(周辺事態法、安保法制)、あるいは敵地攻撃能力のため、GDPの2%の軍事費増大なんて言ってます。これって、背を腹にしてますよ。大事な国民生活を、大事でない軍拡の犠牲にしてまよ。戦後約70年防衛費GDP比1%以内でやってきたんでしょ。借金ないときやってきたんでしょ。今膨大な借金でしかやっていけないとき、防衛費を倍増なんて狂ってます。

 

 

どうです。かつての自民党の旗を拾って、高く掲げる政党はありませんか。自民党でも維新でもいいですよ。れいわでも公明でも共産でも社民でもいいですよ。

 

同じくらい大事な借金対策・経済成長政策は、累進的増税による国家信用維持(破たん回避)と富の分配強化(このほうがいくらか経済成長できると思う。私は若い優秀な大量の労働力の存在=団塊前後が高度成長の基礎と考えるので、もう高度成長は無理。だから、いくらかの経済成長を目指すべき。)をすべきと思う。これを言う政党はありませんか。モデルは、高福祉・高負担の北欧。

 

応援しますよ(笑)

 

戦傷者の遺族の消滅とともに、素朴な「非武装中立」論は勢力を失い(社会党の消滅)、それとだぶる層が多かった個人主義・民主主義を支持する勢力(戦後民主主義)も、自民党個人主義・民主主義を敵視する政策と相まって、後退を余儀なくされた。

 

さて私め、「非武装中立」もある条件下理屈的にありえる(考えの出どころ=小林直樹憲法第9条」他)、しかし、現在国民が武装同盟を圧倒的に支持している以上、武装同盟で行くほかない。その場合武装同盟の危険性除去=専守防衛に戻すことが先決=安保法制廃止。さらにもっと、武装同盟の危険性除去のため、武装中立(安保条約廃棄または軍事面弱体化)を探る、そして環境構築とともに、非武装中立を目指す、そんな風に考えています。

 

個人主義・民主主義の徹底を目指すのは、(これを私は戦後民主主義と思う)、市民革命の理念そのものゆえ、普遍的正しさを持つと判断する。個人主義・民主主義は、憲法にあらわれている。故に「憲法は、永遠のプロジェクト」と考えて、極細微ながらそのプロジェクトに参加するつもりで、残された人生を生きていくつもり。なんてかっこいいこと言っちゃた。

 

という事で(笑い)、午後スタンデイング。恐ろしく暑い。帰ってTVで見ると、35.9度

暑いはずだ。超略装(半ズボン・袖なしTシャツ、アラビアのロレンス風帽子手ぬぐい姿)で。全7名。80を超えている人もいる。「彼なんか参加しなくていいのになあ。年寄りなんだから、しかも自転車だよ。」、というと、妻「あなたも年寄りでしょ」俺は73。・・やはり年よりかな。2番目の年長さんである。

 

 

随分と話がずれました。今日はこの辺で。第14章は次回へ。

 

おっとっと、投稿を忘れた(7月18日)明日(7月19日)は、原町にスタンデイングに出撃する。暑さで撃墜されないようにせねば。