澤地久枝の偉業「蒼海(うみ)よ眠れ」(9)訂正あり(8月19日)

第6巻(最終巻)

第15章 重巡「三隈」「最上」

私は、ミッドウエー海戦は華々しい日米の空母決戦しか知らず、この二つの重巡空母決戦終了後、多くの犠牲を出していることを初めて知りました。「三隈」は特異ですね。第2巻に日本側の死者数が出ています。

空母「赤城」267名

空母「加賀」811名

空母「飛竜」399名

空母「蒼龍」710名

重巡「三隈」698名

重巡「最上」92名

(以下略)

・・・・

計 3046名とあります。

空母4艦と三隈は、沈没したのですから死者が多いわけですが、空母と重巡では、戦闘員も含めた乗り組み員の数が大きく違うでしょう。それなのに三隈は、赤城・蒼龍以上の死者を出しています。なぜか、この巻は、そこも追及しています。

 

その前に、また澤地のすごさを紹介しておきます。

第6巻のあとがきで、この本を出した後もずっと調査を続けていくと言っているように、調査し続けたのでしょう、40年後の2023年のNHK放映時点では3418名となってます。

新たに400名を40年かけて確定したわけです。立派です。喜んでいる遺族も多数いるでしょう。

重巡「三隈」は、2巻では698名となってますが、2年後の6巻時点では700名となってます。ひとりひとり確認していったわけです。澤地のすごさが分かります。お疲れさんです。澤地さん。

・・・・お詫びと訂正(8月19日)

大きな勘違いをしておりました。

第6巻あとがきでは、「1985年2月11日戦死者総数日本側3057名、米側362名」とあります。この合計は、3419名です。2023年NHKスペシャルでは、日米合計3418名でして、上の文の「新たに400名を40年かけて確定した」は、大きな間違いでした。日本側総数と日米合計総数を一緒くたにした勘違いでした。すみません。澤地さんが、確定作業を進めていったことは、間違いありません。

 

さて第15章です。

煩瑣になるとは思いますが、小項目ごとのまとめ又は印象深い事を述べたいと思います。

 

1.羊歯相聞(しだそうもん)

題名は、三隈で戦死した小山正夫の妻慶子の歌集名である。小山正夫は、三隈艦上で割腹自殺したという。なぜ割腹か、それはこの本では不明。きっと澤地も追究できなかったのだろう。この項では、海戦から42年後(!)にようやくできた「三隈会」の慰霊碑の除幕に集った遺族たちについて述べている。また、三隈の100名から150名が見殺しにされたことに再び触れている。

2.ミッドウエー砲撃、3.戦場の錯誤

この2つは、戦死者から離れて、主に「三隈」の沈没に至った経緯を記述している。

三隈などの4重巡は、ミッドウエー島攻略部隊の支援が主任務であったが、夜間砲撃の命令を受けて同島に接近、しかし途中で命令中止となる。その回頭時、三隈と最上が激突。傷ついた両重巡は、翌日と翌々日米軍の攻撃を受けて、三隈が沈没という経過である。

直接には、両重巡の操船ミスが主因だが、連合艦隊司令部・攻略部隊司令部・4重巡隊司令部の、認識と連絡の不手際が目立つ海戦であった。

4.澤田3等水兵のブローチ

「最上」の4番砲塔での死者7名について、わかる限りを紹介している。その中で、澤田敏雄20歳の死の様子は、証言者が2人おり詳しくわかるケースである。彼は、5番砲塔を直撃した爆弾の破片で重傷を負い声も出なくなった。母と妹と撮った写真とブローチを指さしていた。一柳分隊士は、「よしよしこれを故郷に届けてやるぞ」と言ったが、空襲が激しくなり、「後で来る」と言ってその場を離れた。一柳が戻ると、既に死亡し写真もブローチもなかった。

5.5番砲塔

「最上」の5番砲塔24名は、瞬時に戦死。死亡の様子を語れる人はいない。澤地は、24名に関連する情報(軍歴、遺族の証言など)を列挙していく。

6.白絞油の床

続けて「最上」の高角砲等での死者の情報を書く。診療所の様子も描いている。やけどの治療に、料理用の白絞油を使用していた。

 

7.残された絶筆

「最上」の機関室員は脱出できなかった。戦死の15名(全員)のうち3名が、蒸気の噴出(蒸し焼)による死が迫る中、遺書を残した。

「・・・七世報告(ママ)天皇陛下万歳」(青木熊一機関特務少尉)

「親ヨ 不孝ヲ許セ 妻へ頼ム 末武・・・天皇陛下万歳七生報国ノ念ニ燃ユ」(

末武正三等機関兵曹)

「・・・戦友ヨ カタキヲトレ オ母サン サヨウナラ」(丸山幸男一等機関兵)

この章は、この3名のうち、末武正を特に詳述している。

 

澤地は、末武の妻キク子に会いに行き話を聞く。

末武正・キク子夫妻は、キク子10歳のころから義理の兄妹となる。恋愛感情が生まれ、結婚へと話が進む日のことを「もう忘れよりました」とキク子は言う。キク子は、6月妊娠を知る。その時には正はすでに戦死していた(戦死を知るのは9月)。キク子は、

昭和23年再婚。昭和57年6月「最上会」の時、この絶筆の写真を初めて見る。末永正は、全滅の機関室操縦ハンドルに布切れで手を縛り付けたまま絶命していたという。

 

責任感強い人言われた末武だが、遺書を書いた後に、熱く焼けた操縦ハンドルから手を離さないようにしばりつけたのだろう。

 

8.出口のない死

この項目は、「オカアサン サヨウナラ」と書いた丸山やそのほか12名について、分かっていることを列挙している。

 

丸山は母子家庭(丸山12歳の時父死亡)。4人兄弟の長男で、呉海兵団189名中1番の成績。戦闘詳報には、丸山について「・・・通信伝令として稀に見る優秀なる技量を持ち、最期まで電話機を離さず、刻刻の状況を一つとして洩らさず通信し、・・・」とある。

 

死が迫りくる中で、丸山はどんな気持ち「オカアサン サヨウナラ」と書いたのだろう。

9.最後の声

「最上」電気室の戦死者について書いている。伝令員川口三等機関兵の「蒸気が噴く。

退出してもいいか」に対して、岡田機関長は、「舵機は艦の命だ、最期まで頑張れ」と返答したことを、手記で今も悔やんでいる。他9名前後の軍歴・戦死の様子・家族関係を書いている。

10.血の潮騒

室内に流れ出した血は、艦の振動に連れて潮騒のような音を立てていたという。(原文P103)

この項は、最上の水雷科・航海科・飛行科・主計科の戦死者について書かれている。印象に残ったのは、一部遺族の「未だ戦死者について、書き残したくない、言いたくないという」言葉である。人によっては、40余年後でも、親族の心の傷が残っているという事である。

11.フレミング伝説の周辺

レミングとは、6月6日 日本の残存部隊攻撃で戦死した海兵隊の搭乗員である。好青年という事で英雄視された、この項は、6月6日・7日に戦死した米兵12名一人一人をわかる範囲で描いていく。

12.二百対一

この対比は、6月7日の日米の戦死者比である。日本側790余名に対し米側4名である。

この日、日本側は重巡三隈が沈没、重巡最上も92名の戦死者を出す。

澤地は言う。航空兵力と艦艇の決戦がいかなるものであるか、特に航空兵力を欠く場合どういう事態が起きる得るか、この数字は説明を要しない。

後の巨大戦艦武蔵・大和の無惨な戦闘・轟沈を思い出す。

さてこの項は、「三隈」の戦死者の遺族の手紙が中心である。「三隈」の戦闘状況は、

あまりよくわかっていない。それだけ戦死者が多く、証言がないという事である。定員888名(戦時増員はあっただろうけれど不明)中、戦死者700名だからなあ。

・・・・

長くなりました。続きは別に書きます。今日8月15日毎日新聞に、本の宣伝がありました。澤地久枝「記録 ミッドウエー海戦」(筑摩書房)です。日米の戦死者の、極く少さい名前で書かれた3418名というのがひどく印象的です。

 

今日は第3回目のこの6冊の本の延長借りだしの日でした。誰も予約を入れておらず、再び借りだすことができました。7週間目になりますが、私以外は誰も借りません。残念なことです。1942年のミッドウエー海戦から80年後の2023年ですからねえ。興味を持つ人がいないのも当然かもしれません。