澤地久枝の偉業「蒼海(うみ)よ眠れ」(10)

第6巻第15章重巡「三隈」「最上」(承前)

13 恋もなく愛もなく

この項も、続けて重巡「三隈」の戦死者の遺族などからの手紙(アンケートへの回答)の一部(10数名)を紹介している。13は、主砲に関係した戦死者である。

題名の(恋もなく愛もなく)は、火薬庫員西村正雄一等水兵の兄嫁西村みさからの手紙の一節である。長文のごく一部を書き出す。

・・・21歳で海軍入隊、それからというものはお国のために、恋もなく愛もなく、結婚もなく、子もなく、もはや親兄弟もみな死亡しました。・・・・」からとっている。この兄嫁は、西村正雄と同村生ま,れ、小学時代以来よく知っているので、詳しく回答したとのことである。

 

私が惹かれたのは、同じく火薬庫員・中井竜一等水兵の長兄(昭和20年戦死ーA0153 )の長男中井一栄の手紙の一節である。

・・・祖父もなく、父もなく、金もなく、あるのは田畑少し。日本の歴史に是非書き残すべきは、二人の強き女性、竜の母と兄嫁です。なぜこのことに強く力を入れるかというと、特に多くの戦没者遺族家庭がこの一人ないし二人の女性の強さで持ちこたえて現在に至っているからです」

 

まったくそうなんだと思います。この「蒼海(うみ)よ眠れ」をよみついできて、私が思うのは、戦死者の遺族の、戦中戦後の苦労です。そしてその多くは女性が引き受けました。

夫を失っての婚家での労働・炊事・育児、実家に戻っての出戻り生活、再婚、・・・。戦中・戦後日本を支えたのは、女性の力だったのは間違いないと思います。女性が政治をつかさどるべきだ。

 

14.「人の手に渡したくない」

この項は、「三隈」の戦死者の中で、結婚していて子(昭和17年5月以降誕生者)の顔を見ることもできずに戦死した10名の一部について語っている。

日本側全戦死者のうち結婚していたものは、3057名中418名(内縁7名も含む)。そのうち子の顔を見ずに戦死したもの54名。

 

川田寿雄予備少尉・ちづ子夫妻・・・男児昭和18年1月18日生まれる。夫人とその男児のその後については、連絡取れず不明

 

田家四郎兵曹長・田鶴子夫妻・・・次女が18年1月1日に生まれる。4歳と1歳と0歳の子を抱えた田鶴子は、現在まで独身。戦後の苦労を語らず。

 

本崎一等兵曹・美須江夫妻・・・長男がお腹にいることを知らずミッドウエーへ。美須江は、長男5歳の時再婚。美須江「・・・今帰ってくれば詫びをして再び結婚したい気持ちです

 

加藤文明一等兵曹・とし子夫妻

とし子の長文の手紙(・・・は、省略)

「昨年便りを受け取りながらご返事を致しませず、申し訳もございませんでした。・・・18年間銀行の掃除婦として働き・・今度は鉄工場で17年働いております。主人はとても無口なよき人でした。・・・ただ一度の見合いにより結婚したので好きとか嫌いとかの気持ちもなく・・・。主人は面会に行くたびに子供が欲しいと口癖のように言っておりましたが中々できず、それが最後の面会に昭和17年の4月末から5月に・・・できたのです。私はそのことを主人に知らせましたが間に合いませんでした。・・・主人は甘い言葉を言える人ではありませんでした。それが最後の面会の時、お前に一言聞きたいことがあると申しました。私は何かと思っておりました。もし戦死した場合お前はどうすると言いました。私は一生あなたの妻として暮らしますと、主人はとても喜びまして、お前を人の手に渡したくないと言いまして、これで安心して国のために尽くせると言いました。(後略)」

 

15.夢枕

続いてこの項も「三隈」の戦死者の遺族の手紙・インタビューの紹介。  

見田周一一等兵曹・ヤス夫妻

ヤス「・・・実父母でしたので他の方々のような気苦労はありませんでした」

 

藤井二郎二等兵曹・愛子夫妻(軍務中で花婿不在での結婚式)

愛子は、電話口で「もし子供ができたら診断書を送ってくれと言われたので、三隈気付で送ったが、既に三隈は存在せず、夫は戦死していた」。

 

川上吉雄兵曹長・千代子夫妻

千代子「・・・終戦後は荒野に放り出された気持ちで、・・・幼い子を連れてまず食べることに必死でした。・・・母子家庭への風当たりも十分と味わいました。・・・主人の余命もいただいてたくさんたくさん土産話を持ってゆきたいと思ってます・・・・」

 

中西一夫一等兵・雪子夫妻

雪子「・・・戦後、今思い出したら口に筆に書き尽くせないほどの苦労をしました。

大阪生まれのものが主人のお里に帰りできない百姓仕事・・・まったくの売り食いの生活に身も心も疲れ、・・・どれほど天を恨んだことか、・・・子供二人を大きくすることが精一杯でした。・・・」

戦死当時、中西雪子が見た夫の夢は、「子供がかわいそうや」とじっと艦の上で考えている姿だった。

 

田中大輔二等兵曹・みち夫妻

みち「・・・戦死後小農でしたので父母二人で農業をしていました。私は女中奉公をして農繁期だけ手伝いました。・・・テレビのおしんより少し良い方でしたが、最低の生活でした。半年に一度だけ鯖を一匹買ってもらったのを喜んだ思い出があります。・・

(再婚しなかったのは)子供を残して去ることができませんでした」

 

今井林太郎大尉・香年(かね)夫妻

香年「・・・この頃思い出しますのは、夢中になって過ごした若い時代の私の苦労よりも(この人は戦没者遺族の職業補導として医専に入学、医師として戦後を過ごしたーA0153注)、老境になって頼る長男を失われた両親の悲しみがしみじみと察せられるようになりました」

 

奥嘉四郎一等兵曹・末野夫妻

末野「幼子を抱えて生きるため旅館に住み込み奉公をし、筆舌に尽くせない辛い悲しい思いの日々を送ってまいりました」

 

佐々木完作兵曹長・静子夫妻

静子「戦死後収入もなくなり・・・18年4月より子供を母親に託して特設教員養成所に入所して、・・・子供を残し寂しい思いでした。まして病弱のわが子のこと、医療費もかさみ、私の衣類は勿論のこと、亡き夫の衣類も全部、オルガンまで売りつくしました。・・・学校に見世物が来たことがあります。お金が入用だったのです。私の子供ともう一人やはり戦死された人の子供さん(男の子)の二人だけが見なかったそうです。

次女は今でも一つ覚えのようにその時のことを話します。(後略)」

 

森脇順太郎兵曹長・菊枝夫妻

菊枝「呉海軍病院で出産するように、そしたら艦が入港したらすぐに赤ん坊の顔が見られるからと楽しんでおりました夫も、出産の嬉しい知らせを受けとることもなく戦死いたしました。・・・出産して四日目、真っ白な軍服姿の主人が枕元に立ち、『とてもうれしい、良かったなあ、この印鑑を渡しておくのを忘れた』と枕元に置いて、コツコツ靴音をたてて立ち去りました。この間わずか、今もこの靴音が深く私の耳元に残っております。(後略)」

 

長くなりましたので、15が終った時点で止めます。続きはまた。

澤地は、兵士一人一人の墓碑銘を建てるような思いで、文章を綴っているように思いました。そればかりではありません。残された遺族の辛苦も余すところなく後世に残す積りで綴っています。

 

そうです。この「蒼海(うみ)よ眠れ」は墓碑銘・遺族の奮闘録です。40年後の今から見れば、遺族も亡くなった方が多いでしょう。現在では、遺族の墓碑銘にもなっているでしょう。

 

それにしても、遺族は苦労しました。戦中戦後日本国民の大部分は苦労しました。でも遺族の苦労(特に女性)は格別だったのではないかと想像します。

 

この遺族の苦闘を思う時、また兵士の悲しみを思う時、

「戦う覚悟」(麻生太郎)なんて軽すぎる。こんなのが今の政権政党自民党のナンバー2なんだから、・・・こんな自民党、消えてなくなれ!

 

中台戦争に参戦して戦死する自衛隊員の保障はどの程度か?決まっているのか?遺族への保護はあるのか?戦争に巻き込まれる民間人の保障はいかほどか?それは決まっているのか?これを野党は問うべきだ。政府は答えないだろう。答えられない。

 

かつての原発安全神話同様、軍事抑止力神話、日米同盟神話にすがってるんだ。

 

原発は安全です。日本の軍事力が強ければ攻められません。米国は必ず日本を守ります。ですから死者は出ません。ですから保障は考えなくともいいです<

原発事故前の、安全神話と同じです。

 

 

南西諸島の民間人の退避・安全確保は少し考えているようだ。しかし、ひとりも死傷者は出ないか?原発事故では、強制避難・自主避難を含めて原発事故関連死が2000名以上出た。今のままで台湾有事が起きたら、どのぐらいの死傷者・関連死が出るか?

 

南西諸島だけで大丈夫か、米国が中国と本格的に戦うとすると、日本国内の米軍基地の周りの民間施設・民間人の退避は可能なのか?死傷者は出ないか。

 

 

自民党政府は、「戦争をするためでない、戦争を起こさないためだ」なんていうだろう。日本がしなくとも、中国が台湾に仕掛ける可能性がある。その時安保法制下「敵基地攻撃能力」を持つ自衛隊基地は攻撃される。台湾の味方して「戦う覚悟」の日本は攻撃される。

 

「想定外」では済まないぞ。

 

台湾と軍事的にかかわってはまずい。かかわらなければ、危険は軽減する。専守防衛でいけ。安保法成立前に戻せ。少なくとも安保条約の範囲内でいけ。日中平和友好条約を肉付けせよ。国際法・国際司法路線でいけ。軍事を肥大化させるな、軍事はその維持発展のためさらに要求をエスカレートする。その時経済的に破たんしないか。国民に負担する覚悟があるのか?