高度成長時代より今の方が良い。「霙」を読んで

夜勤明けのボーとした頭に、地方紙で気分の悪いニュースが飛び込んできた。

大阪市教委が市内の全小中に全国学力テストの結果を公表するように迫るという」記事である。どうせ裏には、橋本市長がいるんだろうけどね。
先の静岡県知事の、成績の悪い学校の校長名発表(それは中止され、良い方の校長名発表となったが)と同じ発想である。

俺は思う。

悪い方でも良い方でも、成績を公表するのは、各学校に頑張るようにと言うつもりだろう。
発表すれば、頑張るだろう。ただし、ある学年の国語と算数・数学のあのテストに対しての頑張りしか期待できない。もっと多くの大事なことがあるだろう。他教科、スポーツや芸術活動、・家の手伝い、多くの本を読む、友人との付き合い、・・・何をがんばるかは本人が中心で、学校と親が援助してきめればいいことだ。・・・たかが、ある学年の国語・算数のあのテストの結果じゃないか。

それなのに、行政が「成績を発表しろ」とは「大事なのはあのテストの結果なんだよ」と言っているのに等しい。先生にも親にも児童生徒にも言っているのだ。テストの結果が大事なんだよって。

忘れたのか。ゆとり教育導入の時のこと。理科で世界一の日本の中高生が、約20年後に仕事をするようになった時には、世界でずっと下位なってたという事実を。俺は実際導入されたゆとり教育が良いとは思わない。しかし、また詰め込みにしようとしているんじゃないか。詰め込みよりかは、ゆとりの方がいい。

文科省では今、教育の執行権を、現在の教委から自治体首長にするつもりらしいが、静岡県知事や大阪市長を考えると、今より絶対悪くなる。やめよ、そんなことは。

教委もあまり口出しせずに本人・学校・親にまかせる、それでいい。自治体の長中心の教育なんて、偏向教育そのものだ。

おっとっと、俺は、近頃よんだ本の感想を書くつもりで、表題を書いたのだった。

渡辺淳一の「霙」である。

「霙」は、重度脳性まひの児童・生徒の収容施設の話である。場所は、札幌郊外。主に、施設へ通勤する医師の視点から見ている。ただし、視点はぶれている。それがこの小説の欠陥と思った。

印象に残った第一は、人には、他の死を願う気持ちがあるということである。脳性まひ児童の母親と医師が、その児童が肺炎になったとき、心のどこかでその子の死を願う?という深刻な話である。医師は、病理研究の標本として、母はこの子にかかわる苦しさから逃れるため?もちろん医師には、もう助からないという見極めがあるけれど。・・・人の心の闇を描いている。

第二は、18歳の脳性まひ少女にかかわる実母と保母のかかわりである。実母は生活上面倒見切れない。保母もまた18歳になれば、世話をして行けない。結局施設退去後、母と彼女は自殺する。まったく救いようもない暗い気持ちになる。

第三は、この保母の研究発表の場面である。この保母は、手を使えない18歳の少女を訓練して足で食事などを出来るようにした。
ところが、足を使うことに母親たちが猛烈に反対する。「私たちの子どもも人間だ、足を使うなんて・・・」何と無理解な。

そうだ。この時代は、障害児たちへの無理解があった。差別もひどかった。貧しかったった。この施設は、冬12月になっても一日で4時間しか暖房を使えない。

この時代とは、小説の前後から判断すると1960年代初めだろう。60年代末のおれも、大学一年の時、8畳部屋に三人で、炭炬燵であった。貧しかった。

「右肩あがり」、「夢がある」、「人情がある」なんて高度成長時代を良い時代のように言う人もいるが、その時代は、経済的にも貧しく、故に豊かになるために激しい競争があり、ひどい労働があり、この小説のように、間違いなく障害児たちへの蔑視があった。

今の方が良い時代だ。