「みかんの花咲く丘」について思う。明るさと哀しみと

前のブログで理屈をこねたので、お口直しに自分の好きな童謡「みかんの花咲く丘」について書きます。

実はこれは、地元の9条の会の機関紙に書いたことなんです。
今地元の9条の会は休止状態です。私もその一員として何とかしなければと思っているのですが、仕事を始めたこと、ブログを始めたこと、新聞編集の技術を持たないことなどで
そのままにしております。求められれば、機関紙に投稿するつもりはあります。

さて、「みかんの花咲く丘」です。私は小さいころからこの歌が好きでした。3拍子(6拍子か?)のゆったりした曲調が好きです。そしていい天気。見晴らしのいい丘。さわやかな風に乗ってみかんの甘酸っぱい香りも流れてきます。青い海・緑の丘・白いミカンの花・島・遠くの船の黒煙、のんびりした汽笛。明るい景色です。

しかし、明るさのなかになにか哀しい気持ちも感じていました。それは想い出をも歌っているからです。

3番。「いつか来た丘、母さんと、一緒に眺めたあの島よ。今日も一人で見ていると
優しい母さん思わるる」

そうなんです。お母さんをなくした子どもの歌なんです。ですから風景がどんなに明るくとも、曲調が穏やかで明るくとも、哀しい曲なんです。

ぼんやりしている私は、10数年前はっきりとこの曲がなぜ明るくて哀しいかを悟りました。それはこの曲が作られたのが昭和21年と言うことを知ったからでした。

このお母さんは、どうしたのでしょうか。昭和21年は、戦争の終った翌年です。私は、このお母さんは戦争でなくなったのじゃないかと思うんです。

だからこそ、この曲は、当時大ヒットしたんだろうと思います。優しい父さんと思った人もいると思います。優しい誰かを戦争で失った子どもを思う歌でもあるでしょう。

昭和21年。食べること・住むこと・着ることという生活の基本が極めてひっ迫した時でした。犯罪も多かった。しかし、もうこれ以上戦死者はでないという明るい希望もあった時でもあったと思います。「生きている人は帰ってくる」(大石久子=24の瞳の大石先生の言葉)その希望を確定したものは、この年制定された戦争放棄・戦力禁止・交戦権否認の日本国憲法でした。

いま安部政権は、戦死者を出す可能性を高くする安保政策を進めています。もう悲しい思いをする子供を出してはなりません。15事例は、少なくとも自衛隊員の子供に、悲しい思いをさせる可能性を高めます。頑張れ公明、頑張れ自民伝統保守派、頑張れ一部を除く野党。頑張れ一部を除くマスコミ。安倍政権打倒。