「ひのもと救霊会」が求めたもの/「邪宗門」(3)

邪宗門」を読み終えた。そろそろ、「邪宗門」からの卒業論文を書かねばならぬと思う。備忘のために。
高橋和己が作った仮想宗教団体「ひのもと救霊会」の根本要締は、三行・四先師・五問・六終局・七戒・八請願とまとめられる。(第一部第二〇章)三行とは、歩行・誦行・水行の修行のしかたである。(第一部第三章)七戒とは、殺してはならぬ、姦淫してはならぬ、盗んではならぬなど、仏教やキリスト教と共通する倫理項目である。宗教に限らず人の世の生きるための共通の道徳である。四先師とは、開祖行徳まさを導いた四人の恩人である。キリスト教イスラム教・仏教各派もそれぞれの「先師」を持つ故これも特に変わったことではない。ただ、これは言っておかねばならない。4先師とは、開祖に読み書きを教えた酒のみ坊主、開祖に水と握り飯を与えた名も知れぬ樵、間引きされそうになった開祖に乳を与えた白痴の女、娼婦となった開祖の子を助けた娼婦と言うことである。あくまでも庶民、しかも身分・地位のない貧民なのである。(第一部第一章の1)
「ひのもと救霊会」を特徴づけるのは、五問、六終局、八請願である。
五問とは、開祖行徳まさが他の宗教家や教育者・社会事業家に問うた五つの問いである。それは、一生懸命生きながら、六人の子を産んで四人に先立たれ、残った子にもそむかれた母の命に何の意味があるかと言う問いである。「何故長男は戦死したか、何故長女は娼婦になり病毒に侵され死んだか、何故次男は行方知れずになったか、何故次女は地主の納屋で首をくくったか、何故三女は末っ子を餓死させたのか」(序章その二の1)
これをまともに問えば、当然社会の仕組みのあり方の問題に行きつく。開祖行徳まさの時代であれば、明治の国家社会の中の根本=寄生地主制、資本主義、男尊女卑の封建制の遺構、それと不可分であった天皇制絶対主義国家の問題に行きつく。人の平凡な幸せを追求して行けば、当然社会体制の変革=世直しを求めることとなる。その世直しのイメージは、六終局にある。これは、開祖行徳まさの予言でもある。
最後の一人に到る最後の殉難
最後の愛による最後の石弾戦
最後の悲哀を産む最後の舞踏
最後の快楽に滅びる最後の飲酒
最後の廃墟となる最後の火の玉
そして宇宙一切を許す最後の始祖(第一部第二章の2)
つまり最初から、「ひのもと救霊会」は、国家権力と正面からぶつかり武装闘争も辞せず、その結果崩壊する性格を持つ。

そして、破局の末の理想の社会のイメージは、宗旨の最大の特徴である八請願にある。
 たとえ花ひらき、無量光輝く天国の眼前にあろうとも、此岸に一人の不幸に涙するものあり、一人の餓鬼畜生道の徒ある限り、我らは昇天せじ
 たとえ黄金珊瑚あり、真珠瑪瑙の輝きあるとも、此岸に一人の亡者あり一人の貧者ありて、その光を眺め得ぬ限り、我らもまたその宝を見じ
 たとえ目くりぬかれ耳ふさがれ、手足もぎとらるとも、此岸に一人の不義の徒あり、人を支配し、徭役し、その手の血に穢るる者ある限り、我らこの世を寛恕せじ
 たとえ劫億の未来世においても、そこに一瞬のそねみの心あり、人の禍を楽しむ一点の邪心の残る限り、我ら安心立命することなからん
 たとえこの世に安楽の花の満るとも、祖霊に供養されざる一人の無縁の霊あり、精霊に慈悲かけられざる一個の怨霊のある限り、我ら成仏せず
 たとえ身は業病に朽ち果つるとも、たとえ金の鎔け、陽の東に没し、川の逆流するとも、我らの信心に一点の動揺あらば、神よ、我らを救いたもうことなかれ
 たとえこの世栄え、積善余慶あり、万人の生活自在なるをうるも、応報の理に一点の障礙ある限り、この世はむしろ呪われてあれ 
 たとえこの世の破滅し、この世の永遠に呪われてあるとも、己一人にて救わるる心あらんよりは、むしろ世とともに呪われてあらん
                                          (第一部第十章の1)
この宗教の目指すところをまとめれば、次のように言える。
死後の幸福(極楽往生、死後の永遠の生など)を願うものでなく、此岸(この世)での理想社会を作ろうとする宗教。
一人の貧者の存在も悪とし、人が人を支配することを否定する宗教。(自由・平等・豊か)
生きている人全てが救われることを望み、自分ひとりだけの幸福を望まない宗教。(信頼・連帯)
換言すれば、全ての人が、言葉通りの「自由で平等で豊かな連帯」社会を作ろうという宗教と言える。その方法とそれをになった人々の奮闘と悲劇が、この小説である。
徳仁二郎、八重、堀江駒、堀江民江、松葉幸太郎、強く優しい人々である。行徳阿礼、足利正、強く強い人である。行徳阿貴、優しい優しい人である。佐伯医師、西本園長、円満な常識的な優しい人である。植田克麿は、善意の人である。植田文麿、加地基博は、正義の人である。第三部の主人公千葉潔は、・・・わからぬ。これらの人々に共通するのは、誠実と言うことだと思う。中村鉄男、吉田秀夫は、作者高橋和己の分身ではないか。

この宗教は、戦前には二度にわたって弾圧されて殆ど壊滅する。弾圧の主体は、国家権力であるが、左翼勢力、キリスト教、仏教側からも批判される。と言うことは、逆に言えば、戦前の国家権力、左翼勢力、キリスト教、仏教もまた正しいのかどうか問われることとなる。
戦後はどうか、戦後も「ひのもと救霊会」は、言葉通りの自由・平等・相互信頼・連帯を求めるが、占領軍・日本政府に弾圧され、絶望的武装蜂起をして完全に壊滅する。(第三部)左翼勢力・キリスト教・仏教側からも批判される。ということは、占領軍や戦後の左翼勢力、キリスト教、仏教が正しいかどうかも問われることとなる。それ以上に、「ひのもと救霊会」を見殺しにした庶民も問われることとなる。
ただし、崩壊したのは昭和二一年二月と言う設定である。この時期は、日本国憲法の原案がGHQから政府に示され押し付けられた頃である。日本国憲法体制について高橋は触れていない。この時期に設定したのは、日本国憲法信奉者である私には、高橋和己の逃げではないかと思うのである。つまり、日本国憲法原案を知っていれば、「ひのもと救霊会」は、絶望的武装闘争に陥らなかったのではと思うのである。
武装蜂起の直前、武力闘争を考える千葉潔とそれを否定する吉田秀夫は、緊迫した討論をする。
吉田は言う。「何度も繰り返すようだが、俺は別の方法があると思う。血を流さず、教団が志向する理想社会を徐々に築いていくこともできると思う。たとえば選挙法さえ改正されれば、選挙によって、全国的には無理だろうが、この神部地区、うまくいけば府下(京都)一帯の地方自治に救霊会の意向を反映させることもそう困難ではない。・・・それを全国に推し広めていけば・・・」
千葉「いや、それは無理だろうな」
吉田「だとしても、君の考えてる方法が可能とも思えんがね」
・・・
吉田「もう血を流すのは十分じゃないか。・・・日本人はいやと言うほど血を流してきた。・・・日本人は平和のイメージを持っていない。この悲しい民族を、多少の不徹底は残しながらも、いま、宗教は、平和に耐えうる存在にするために力を尽くすのが本道だ。ひのもと救霊会は、宗教団体なんだから」
千葉「今日本人は、確かに戦いに敗れたばかりだから、もう戦争はこりごりと思っており、もう戦争など、この日本にも世界にもありえないと思っている。その希願の痛切さを認めぬわけではない。・・・今九九歩まで来ている。だがあと一歩を怠れば元の黙阿弥になる・・・」
吉田「その通りと思う。しかしねえ、君の考えたことの実現、それも非常に可能性の乏しい実現のために救霊会の人々を矢面に立たせるのは、あまりにも無残と言う気がする。・・・救霊会が過去にも現在にも特色ある一つのまとまりを持ちえたのは、それが自然発生的な地域共同体に立脚していたからだと思う。人為的な人工的な国家の権力に反抗する感情的基盤が自然に備わっていた。だが同時にそれは救霊会の踏み越えてはならぬ限界も示していると思うのだ。・・・救霊会は、資本家が牛耳ろうと共産主義者が主人公になろうと、ひたすらに集中しようとする国家権力に対する抵抗基体として、政治的には消極的なしかし生活と精神の自由は断固と売り渡すことのない団体として活躍するよう助力すべきと思う。・・・
千葉「一つの思想と言うものは、まず少数の精神に宿り、やがてその思想の実現のため、特定の団体に委任される。クリストにとっては、心貧しき人々、マルクスにとっては、プロレタリアート、・・・委任された側は、委任された理想の実現のために苦しみを負っても、その理想によって勇気づけられた半面を持つ以上・・・」
吉田「そう、その委任と言うことだ、つらいのはね、君がね、・・・君が救霊会の人々と同じ信仰を持っているなら、その委任も倫理性があるんだが、・・」
千葉「マルクスレーニンももともとプロレタリアートじゃなかった」
吉田「それはそうだが、君だけじゃなく・・メンバー全員がやはりまず平信徒になるべきであり・・・・」
千葉「君の言うことの方が本当だろうな。・・・実際俺は今悪魔的なことを考えている。・・・」
・・・
(第三部第二三章の1)

現在の我々は、この吉田の言う「選挙による理想の実現と言う方法」を基本としている。しかし、GHQと日本国民の意思を表現した現憲法下でも、21世紀の現在になっても、真の自由・平等・豊かさ・連帯があるとは、まったく思えない。「ひのもと救霊会」の人々の問いかけは、二一世紀の今も生きている。